横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第117号
2012(平成24)年7月19日発行

表紙画像

企画展
「生麦事件 激震、幕末日本」
−本邦初公開のリチャードソン書簡から−

今回が本邦初公開となるリチャードソン家の遺品資料の中で最も重要なものは、やはりリチャードソンがイギリス(イングランド)の家族に宛てた書簡であろう。現在、子孫の元に遺っている約80通の中から、今回は18通を借用し、展示する。

約80通にものぼる書簡はサウサンプトン港を出航し上海に向かう途上から送った1853年1月25日付母親宛て書簡に始まり、最後となった横浜からの1862年9月3日付父親宛て書簡で終わる。

リチャードソンの略歴

チャールズ・レノックス・リチャードソン(Charles Lenox Richardson)は、1833年4月16日に現在のロンドン市内に生まれた。父親のチャールズ・リチャードソン(1796〜1868)【図1】はジェントルマン階級に属し、水道業に従事した。母親はルイザ(旧姓ルイザ・アン・レノックス 1798〜1876)といい、リチャードソンは4人姉妹(姉3人と妹1人)に囲まれ、一人息子として育った。

【図1】リチャードソンの父親の肖像写真
マイケル・ウェイス氏蔵
【図1】リチャードソンの父親の肖像写真 マイケル・ウェイス氏蔵

中学校程度の教育を終えると、母方の叔父の個人商会(レノックス&甥商会)に預けられた。20歳になった1853年、リチャードソンは上海に渡り、おもに生糸取引と不動産売買業に携わった。1857年に一時帰国するが、翌58年、上海に戻った。それから4年後の1862年、上海を引き揚げて帰国を決意し、帰国前に念願の日本行きを実現した。同年7月初め頃に来日し、9月14日、生麦事件に遭遇して命を落とした。(以上の略歴は、宮澤眞一『「幕末」に殺された男−生麦事件のリチャードソン』新潮社、1997年に拠る)

リチャードソンの肖像

両親や姉の肖像写真や肖像画は遺されているが、リチャードソン本人の写真は、上海の写真館で撮影したものを送る、という記述が書簡に何カ所かあるものの、遺っていない。

唯一知られている写真は、事件直後に撮影されたシーツで覆われた遺体の写真で、オランダのライデン大学が所蔵している。ここでは、幕末に横浜に来駐してきたイギリス陸軍のスミス中尉が描いた事件遭遇時のリチャードソン【図2】を紹介しよう。

【図2】スミス中尉の描いたリチャードソン 生麦事件を描いた水彩画から
スミス家寄託・横浜開港資料館保管
【図2】スミス中尉の描いたリチャードソン 生麦事件を描いた水彩画から スミス家寄託・横浜開港資料館保管

スミス中尉は事件から2年後の1864年に来浜し、66年まで山手に駐屯した。その間にワーグマン画のほぼ同じ構図の水彩画を模倣して描いたようだ。余白にある誤った説明まで同じである。

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