横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第115号
2012(平成24)年2月1日発行

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企画展
横浜の写真館の歩み
−1860's〜1960's−

大衆社会と拡がる写真ニーズ

1923(大正12)年9月の関東大震災という歴史的事件も、写真館は克明にとらえていた。弁天通に店を構えていた前川謙三は、横浜市からの要請を受けて、市内の被災した町並みを余すところなく150枚の写真に収めた(『報告書 横浜・関東大震災の記憶』横浜市史資料室、2009年)。また、震災復興事業の進行とともに、変わり行く町の姿を、写真師たちは記録し続けていた。

震災を挟んで、横浜市は人口50万人を超え、大衆社会の到来とともに、写真館は人びとにとって身近な存在となった。出産・七五三・結婚など、人生の門出に写真館のスタジオで家族写真を撮ることが人びとの間で定着していくこととなった。

また大量生産・大量消費社会は、広告写真という新たな市場を生んだ。伊勢佐木町の野沢屋、松屋に代表されるデパートは、消費者の購買意欲に訴える様々な広報宣伝を行った。デパート内に写真部が登場し、ポスターやカタログに使用する商品・広告写真の撮影が新たに加わった。【写真5】は、野沢屋宣伝部の専属であった長崎写真館(現在、スタジオ・ジェイズ)で撮影されたものである。もちろん被写体の子どもはモデルではなく、写真館の家族である。

写真5 スタジオ・ジェイズ所蔵
写真5 スタジオ・ジェイズ所蔵

この頃から、小中学校のアルバム制作も写真館が手がけるようになった。集合写真ばかりでなく、授業風景、修学旅行や体育祭の写真などを織り込み、表紙にも様々な意匠を凝らした卒業アルバム制作が、写真館の大きな仕事となっていった。

さらにマスメディアの発達に伴い、報道写真という新しい分野も誕生した。この分野を開拓したのは岡本三朗(おかもとさぶろう)という人物である。彼は、横浜写真界の古参・玉村康三郎に入門し、後に常盤町に「サブロの写真工場」を開業、関東大震災直後の余燼(よじん)くすぶる町中を、写真機材を担いで撮影して回った。震災後は真砂町に横浜写真通信社を構え、市役所・税関・県庁等の記録写真をはじめ、横浜貿易新報などにニュース写真を提供した【写真6】(『横浜人物伝』)。

写真6 横浜貿易新報の旗を前にする岡本三朗(左) 昭和初期(岡本すみ子氏所蔵)
写真6 横浜貿易新報の旗を前にする岡本三朗(左) 昭和初期(岡本すみ子氏所蔵)

このように、震災後に復活を遂げた写真館は、大衆社会の誕生という時代状況に呼応しながら、新たな市場を開拓していったのである。

(松本洋幸)

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