横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第115号
2012(平成24)年2月1日発行

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展示余話
所蔵資料の来し方、行く末

企画展示「港都横浜 近代日本のナビゲーター」(以下、「展示」と略称)は、19世紀を中心に横浜が近代化日本にはたした先導的役割の諸相を紹介し、あわせて開館30周年を迎えた当館所蔵資料の「来し方」を伝えることをねらいとした。資料のなかには、横浜にあって、関東大震災や横浜大空襲の災禍をくぐり抜けたものがあり、「展示」準備の過程は、横浜開港資料館自体の歴史的存在意義の重さを確認する作業となった。

コレクションとしてのまとまり

昭和3(1928)年、横浜市史編纂係が作成した『開港七十年記念 横浜史料』というコロタイプ印刷の図録がある(1978年に復刻版)。この図録は、5年前の関東大震災の被害によって歴史資料の多くを失った横浜の、アイディンティテイを確認する意味をこめて編纂された大冊である。「展示」では、『横浜史料』出版段階では個人蔵であり、現在では館蔵資料となっているもののいくつかが出陳された。

設楽巳知氏旧蔵の「売仕切」【図1】は、本町の生糸商石川屋與助(よすけ)が、生糸荷主の近江屋伊七に対して、安政6年12月(1860年)7日・8日両日にわたる生糸売り込みの結果を報告したものである。この2日間の生糸売り込み金額は1万55枚(ドル)余と多大であり、糸価が高騰していた当時の事情を物語る。また、文書自体も長さが1.5メートル余と実に大形で、後年の「仕切書」が美濃折紙大に記されることが多いのに比較して、生糸貿易開始直後の勢いが感じられる。設楽氏は、生糸商の原合名会社の社員であり、後年となるが昭和12(1937)年の同社『店員名簿』では、売込部副支配人兼庶務課長、横浜の老舗企業の相応の地位にあって、主に貿易関係の資料をコレクションしたのである。「展示」ではそのほかに、日本生糸の品位に対する外国商館の批判が高まっていた明治6(1873)年4月、大蔵省が生糸流通に介入するために用いた「鉄砲造化装紙印紙(てっぽうづくりかそうしいんし)」(原資料の貼付台紙には「提糸商標(さげいとしょうひょう)」と記入【図2】)や、農家副業として行われていた座繰製糸から、人力動力による器械製糸へと移行する可能性を図示した多色摺りの「生糸製法一覧」(明治6年春・1873年)などの設楽氏旧蔵品が出陳された。設楽氏旧蔵資料・図書は、「設楽文庫」の押印があるもの、展示出品者「設楽巳知」名が記された紙票が貼付されているものなど、さまざまな指標で判明するが統一的でなく、また総体としての目録もなく、現在では復元ができない。

図1 石川屋の「売仕切」 安政6年12月8日 設楽巳知氏旧蔵・当館蔵
図1 石川屋の「売仕切」 安政6年12月8日 設楽巳知氏旧蔵・当館蔵
図2 鉄砲造化装紙印紙 明治6(1873)年4月 設楽巳知氏旧蔵・当館蔵
図2 鉄砲造化装紙印紙 明治6(1873)年4月 設楽巳知氏旧蔵・当館蔵

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