横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第115号
2012(平成24)年2月1日発行

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特別資料コーナー
太平洋を渡った幕末の船大工
鈴木長吉関係資料

鈴木長吉(すずきちょうきち)は、文政元(1818)年、伊豆国賀茂郡河津浜(現在、静岡県河津町)に生まれ、浦賀町(現在、横須賀市)で船大工の修行を積んだ。安政2(1854)年、造船技術優秀な者として幕府に認められ、当時、幕府が長崎に新設した長崎海軍伝習所に伝習生として派遣された。

そこで長吉は観光丸と出会った。観光丸は伝習所の練習船で、勝海舟らも操船技術を学んだ日本初の洋式蒸気軍艦である。長吉はその姿を詳細に写し取る。61頁からなる和紙のスケッチ帳は、表紙に「観光丸見取之図」と書かれ、甲板上の帆柱や舵などの船具類と、それらが船体にどう取り付けられているかなどが、事細かに写し取られている。また同じ船具を作れるようにと、寸法も書かれている。スケッチ帳の1頁1頁からは、西洋に追いつくために懸命に技術を学びとろうとする、熱い思いが伝わってくる。

図 観光丸のスケッチ帳より
三澤晨子氏所蔵・横浜開港資料館保管
図 観光丸のスケッチ帳より 三澤晨子氏所蔵・横浜開港資料館保管

2年間の伝習を終えた長吉は、幕府が江戸に設けた軍艦操練所に出仕し、技術者の養成に携わった。

万延元(1860)年、日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節が派遣される。長吉はその随行艦である咸臨丸に大工頭として乗船し、アメリカに渡った。維新後は、新政府が運営する横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)に勤務し、近代造船技術の確立に大きな足跡を残した。

2011年6月、鈴木長吉関係資料が、長吉のご子孫にあたる三澤晨子家(静岡県河津町在住)より当館に寄託された。その後、11月29日から12月27日にかけて、長吉関係資料のミニ展示を開催した。

寄託された資料の総点数は72点、主な資料としては、スケッチ帳のほか、長吉の肖像写真、長吉が咸臨丸で持ち帰ったアメリカ製の食器、長崎海軍伝習所での記録、横須賀製鉄所に勤務した際の辞令などがある。

鈴木長吉の資料は、勝海舟が艦長をつとめた軍艦として名高い咸臨丸の足跡を現在に伝える貴重なものであると同時に、長吉のような無名の庶民の力が、日本の近代化を支えたことを如実に物語る資料である。

(西川武臣)

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