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「開港のひろば」第115号
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企画展
横浜の写真館の歩み
−1860's〜1960's−
横浜写真から絵葉書へ
下岡蓮杖は1876(明治9)年頃に東京へ移住するが、彼の弟子たちや、1880年代以降に開業した日下部金兵衛(くさかべきんべえ)や玉村康三郎(たまむらこうざぶろう)らによって、横浜の写真界は新たな段階を迎えた。横浜写真の隆盛である。横浜写真とは、手彩色を施した日本の風景・風俗写真で、明治中期の輸出用工芸品として大量生産された。【写真2】は、横浜写真の一例である。
20世紀に入ると、横浜のスーベニアル・アートの主流は、高価な横浜写真から、安価な彩色絵葉書へと移っていった。市内には「日本元祖絵葉書製造元」を自認する上田写真版合資会社、星野屋、トンボヤ、ファルサーリ商会などの絵葉書店があり、専属カメラマンを置いたり、市内の写真館に撮影を依頼するなどして、原版写真を作成していた。
【写真3】の撮影者・飯倉東明(いいくらとうめい)は、飯倉写真館の創業者・飯倉亀吉(いいくらかめきち)。1884(明治17)年伊勢佐木町付近で生まれ、境町の鈴木写真館に入り、後に長崎で修行。日露戦争の直前に横浜に戻り、上田写真版合資会社の写真主任などを経て、1908年独立開業した(『八十三年』飯倉俊夫(いいくらとしお)、1967年)。絵葉書は、職業写真家(写真師)にとって横浜写真に替わる大きな市場となっていったのである。
集まる写真師たち
広範な写真ニーズを背景に、大正初年頃、横浜には50もの写真館があった。彼等は1910(明治43)年に同業組合を組織し、親睦・連携と、技術の研鑽(けんさん)につとめた(『横浜市写真師会設立百周年』)。同時にアマチュアの同好者を含めた横浜写真会が発足、職業写真家たちに加えて、中村房次郎(なかむらふさじろう)・大浜忠三郎(おおはまちゅうざぶろう)・渡辺文七(わたなべぶんしち)・上甲信弘(じょうこうのぶひろ)ら市政財界の有力者たちも名を連ねた。同会の有志者で組織された横浜写真同好会は、毎月品評会や撮影会を開催して、写真技術の向上につとめた(『影』初輯、横浜写真会、1912年4月)。
このほか横浜写真会が母体となって、写真術研究会・ミニマム写真倶楽部・横浜ニューカラー倶楽部(1914年)、横浜ビンバ会(1918年)、横浜写友会など、様々な写真愛好団体が、大正〜昭和初期に誕生した(『写真月報』)。こうした団体の多くは、プロ・アマの写真家(外国人を含む)の双方を含んでおり、写真技術の向上と普及に大きく貢献した。
【写真4】は、親光会(しんこうかい)と呼ばれる写真師の団体が、静岡県下田の下岡蓮杖の碑を訪れた際の写真である。親光会とは、前川謙三(まえかわけんぞう)(前川写真館)が主宰した同業者の研究会で、「新感材の使用実習をしたり、東京の諸研究会えもよく足を運んで居た」という(前川順三(まえかわじゅんぞう)「此の道、親子三代」)。横浜の写真師たちにとって、先人・蓮杖は格別の存在であったろう。