横浜開港資料館

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「開港のひろば」第113号
2011(平成23)年7月27日発行

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資料よもやま話
中居屋重兵衛関係資料から
−生糸貿易が始まった日−

中居屋の開店と商談の開始

写真2 開港直後の横浜を描いた地図 (横浜開港資料館蔵)
中央の市街地が開港場。中居屋の店は本町4丁目にあった。
写真2 開港直後の横浜を描いた地図(横浜開港資料館蔵)中央の市街地が開港場。中居屋の店は本町4丁目にあった。

通商条約にもとづき横浜が開港したのは6月2日のことであったが、中居屋の開店は開港期日よりも少し遅れた。日記によれば伊藤が横浜に着いたのは6月16日で、翌々日の記述に「横浜江参ル、昼頃より中居屋にて代呂物(品物)切解大働」とあり、中居屋で荷物の梱包を解いたとある。また、19日の記述には中居屋が開店したことが記され、中居屋の店開き6月19日であったことが判明する。

【資料2】
十九日、天気
中居重兵衛開店、為祝儀蒸籠十荷遣ス(中略)
廿日、天気
今日、不快に付、横浜へ参り不申、(中略)十九日朝、店開之節、イギリス人参り、大井ニ噺相分り■■早々見せ申候、アメリカ壱歩銀之事、ドロと申候、神奈川本覚寺にアメリカ上陸いたし居候

日記によれば中居屋が開店したのは早朝で、開店早々からイギリス人が生糸を見に来たとある。このことは別の城下町商人の記録(上田市立博物館蔵「滝沢家文書」)にも記述があり、中居屋で19日に生糸に関する商談があったことは間違いない。しかし、日記を読む限り、この日の商談は見本を見せただけで、仮契約までにも至っていないように感じられる。

開港直後の横浜では、幕府が「新二朱銀」という貿易通貨を新たに発行したため、外国人が商品を買わなかったことが指摘されている。通商条約では洋銀(外国人が持ってきた国際通貨)100枚を日本の銀貨である一分銀311枚と交換することになっていた。しかし、幕府は開港期日の直前に新たに鋳造した新二朱銀を発行し、洋銀百枚を新二朱銀200枚と交換する形で貿易をおこなうと発令した。一方、国内の為替レートでは新二朱銀200枚を一分銀100枚と交換することになっていたから、新二朱銀の発行によって、外国人が持ち込んだ洋銀の価値は通商条約で決められた価値の3分の1以下に下落することとなった。

これに対し、アメリカ公使やイギリス公使は幕府に激しく抗議し、来日した外国商人は交渉結果を見守ることになり、開港直後の輸出貿易は完全に停滞した。おそらく、中居屋を訪れたイギリス人も洋銀の価値の下落を考え、生糸の見本を見ただけで契約しなかったと思われる。こうした状況が変わったのは、幕府が新二朱銀の通用停止を決めた6月23日以降のことで、これ以後、横浜での生糸取引が活発になった。

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