横浜開港資料館

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「開港のひろば」第113号
2011(平成23)年7月27日発行

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特別資料コーナー
横浜を彩る花火

『大日本横浜平山夜煙火全図』より
横浜開港資料館所蔵
『大日本横浜平山夜煙火全図』より 横浜開港資料館所蔵

夏の夜空を彩る花火は隅田川の川開きで知られるが、江戸時代から人々を楽しませてきた。当時は、浮世絵に見られる、黒色火薬を使った橙色で薄暗い「和火」と呼ばれる花火であった。現在のように燃焼温度の高い塩素酸カリウムなどの化学薬品を用い、複数の色に彩られた花火は「西洋花火」と呼ばれ、明治時代になって始まった。

横浜では、明治10(1877)年に平山甚太(1840−1900)が岩田茂穂と共に、平山煙火製造所を設立したことから始まる。平山は、三河国吉田藩(現在の愛知県豊橋市)の武士の出身で、勘定方を務める傍ら火薬製造にも従事していた。岩田は豊前中津(現在の大分県中津市)出身で、同郷の福沢諭吉の門下生であった。

この年の11月3日天長節の朝6時、市内の人々は「残月をつらぬくばかり」の花火の音で目覚めた。平山が製造したものである。午後には花火の打ち上げ会場である横浜公園内外に、多数の見物客が詰めかけた。『横浜毎日新聞』によれば、午後3時半から午前12時まで、大小400発余(『横浜沿革史』には300発余と記載)の花火が打ち上げられた。この夜、町会所楼上では、野村神奈川権令・裁判長・税関長が各国領事とともに花火を観賞した。外国人にも好評を得て、花火製造の注文を受けたのが、輸出のきっかけとなった。

同じ月、平山は上野で開催された内国勧業博覧会閉場式での、打ち上げ花火の依頼を受けた。予定は52本。中でも「賊軍敗走」と「開化野蛮」の2本が注目された。前者は砲声と共に「陸軍の大旗」が空に上がり、「丸に十の字の小旗」(西南戦争での西郷軍)が数十落降するというものである。後者は「礼服高帽子の官員の人像」と「大髷(たぶさ)の相撲の人像」を出現させる仕掛けであった。当時丁髷(ちょんまげ)に裸体の相撲は、野蛮であるとされた。実際には打ち上げられなかったが、二つの花火は世相を象徴する対比を示していた。

ところで、「賊軍敗走」と「開化野蛮」は「昼花火」である。「昼花火」には、日中煙の色を楽しむものや、火薬の他に軽くて柔らかい素材で作った人形、動物、魚、昆虫などを花火玉に詰め、打ち上げた際に中から人形などが飛び出して、フワリフワリと空中を漂うというものがある。現在は電線にかかる危険があり、限られた場所でしか見られないが、当時は輸出用のカタログも「夜花火」と同様に発行されており、人気があったようである。

平山の花火は、明治13年頃に海外へ輸出されるようになるが、明治16年8月7日付で、日本人最初の米国特許を取得した。特許は「昼花火」であった。昨年横浜でAPEC(アジア太平洋経済協力会議)が開かれたが、その記念品として、平山が取得した特許の複製と日米国旗をあしらったプレートが、アメリカ合衆国の大統領からわが国の首相に贈られた。

アメリカと言えば、かつて横浜の名物で、7月4日に行われた米国独立記念日の花火も、明治11年から大正12年までは平山煙火が打ち上げられ、人々を楽しませていた。

今年も、横浜の夜空を大輪の花火が彩る季節である。

参考文献:伊東洋編著『横濱花火年表』(2006年)

(上田由美)

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