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「開港のひろば」第113号
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企画展
広瀬写真の魅力と史料的価値
広瀬始親氏は青年期にカメラと出会い、昭和30年前後に盛んに市内の情景を撮影して歩いた。ここではその広瀬写真の魅力と歴史資料としての価値について考えたい。
広瀬写真の時代
昭和27年(1952)、横浜のルポルタージュを著わした八木義徳氏は、この街には安定感がなく、なんとなくチグハグな感じがし、「にぎやかなようでさびしく、活気があるようで鈍く、はでなようで汚く、明るいようで暗く、なんだか統一した気分とか調和した雰囲気が感じられません」という印象を抱く。そうして取材で街を歩いた後、「昔のハマはなくなった。新しい横浜はまだ生まれていない。現在の横浜は撹拌されながら胎動している」との結論を得るにいたる。(「ヨコハマ」高見順『目撃者の証言』1952年9月収録)
1950年代の横浜は、敗戦による接収、朝鮮戦争勃発とそれに続く講和条約締結という急激な時代の流れのもと、時々刻々とその表情を変えていた。広瀬氏はまさにその時代の横浜を写した。
撮影したフィルムには連番がつけられ、撮影場所と年月日がきちんと記録されている。当館に寄贈された写真の撮影期間は接収解除から9か月あまり後の1953年2月5日から始まり、1961年8月頃までつづく。その間8年あまり。ほとんどの写真について、撮影された場所と日付が判明していることから、歴史資料としての価値が極めて高い。
1954年頃の伊勢佐木町を写した写真には、まだまだ駐留軍兵士の姿が目立つが、開国百年祭を契機に商店街の整備が進み、街は秩序と活気を取り戻していく。1955年、戦後十年を過ぎる頃には、人びとの表情は意外なほど明るく、街は物資にあふれている。しかしその一方で、大岡川には荷役労働者たちの木賃宿のだるま船が浮かび、関内には依然として空き地が広がり、山下公園の半分には駐留軍住宅が建ったままである。
広瀬氏が写したのは、まさしく「チグハグ」な表情の横浜だ。「撹拌」中の復興期から、もう少しで高度経済成長へとテイクオフする横浜を記録した、貴重な歴史資料といえる。