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「開港のひろば」第113号
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企画展
広瀬写真の魅力と史料的価値
街の記録
昭和30年頃、広瀬氏は藤棚の県営住宅に暮らしていた。この西区の高台から出動して、横浜の街を歩いてまわった。撮影範囲はおおむね西区、中区、南区。県営住宅の敷地を出て左に曲がると神中坂。その急坂を下ると藤棚商店街となる。
反対に右に曲がって水道道のアップダウンを越えれば、野毛山だ。そこから野毛坂を下れば、大岡川沿いに出る。さらに都橋を渡れば福富町・吉田町・伊勢佐木町となる。そのまま歩いて港に向かうこともできるし、市電に乗れば横浜橋の商店街はすぐそこだ。港の近くには山手・元町があるし、中華街がある。こうしてぐるりと横浜の中心部を歩き、移り行く街の姿をフィルムにおさめた。その多くは、高度経済成長以後の都市整備の中で失われた風景であり、貴重な街の記録である。その中でもとくに印象的な風景は、港と坂道である。
港
外国航路の船が出港する日には、広瀬氏はよく大桟橋に通った。その頃の大桟橋には、カメラマンを引きつけてやまない磁力があった。
港が横浜の顔であることは今も昔も変わらないが、昭和30年頃を境にその意味が変化する。幕末の開港から航空機時代が到来するまでの百年あまり、横浜の港は日本の玄関であった。羽田や成田から海外に行く現在とは異なり、その時代のハマは、特別な意味を持つ存在だった。
北米航路の船が出航する際には、大桟橋には家族や知人を見送る駐留軍関係の人びとで溢れ、別れのテープが舞った。遠く南米への移民船が出航する際には、見送りの日本人が桟橋を埋め尽くし、希望と不安、歓喜と悲愴が交錯した。