横浜開港資料館

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「開港のひろば」第112号
2011(平成23)年4月27日発行

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資料よもやま話
『横浜新報』と久留島武彦
 −横浜で始まったお伽倶楽部

川上音二郎・貞奴とお伽芝居

お伽芝居は、『横浜新報』の紙面でも紹介されたが、巌谷小波がドイツで見聞した少年少女のための芝居をとり入れしたもので、脚本の多くをお伽噺からとり、家庭教育の補助とし、学校教育の参考にもなる内容のものである。お伽倶楽部に接した川上音二郎が、久留島や巌谷と検討を重ね、貞奴と共に実施にこぎつけた。『横浜新報』には、7月5日・6日に、川上と貞奴が茅ヶ崎の小学校でお伽芝居を試みる予定で、巌谷や久留島が当日援助するという記載がある。実施されていれば日本で最初のお伽芝居の上演であるが、新聞の原紙が残されていないため、実際に開催されたのかどうかは不明である。

第1回のお伽芝居として知られるのは、10月3日・4日に東京の本郷座で開催されたものである。演目は、川上が主人公の狐を演じた「狐の裁判」、貞奴が主役の少年フレッドを演じた「浮かれ胡弓」であった。貞奴のフレッドは当たり役となり、その後各地で上演されたようだ。横浜でも、11月15日付の『横浜貿易新聞』に、同月28日に横浜の喜楽座で横浜孤児院のための慈善演芸会が開かれ、川上音二郎・貞奴出演で「狐の裁判」・「浮かれ胡弓」が演じられるという予告がなされている。

おわりに

久留島は、児童文化活動に専念するべく、『横浜新報』を退社した。その時期については、明治36年7月から9月の同紙が見つかっていないため、不明である。しかし、10月からは『中央新聞』に入社したことが分かっている。

久留島退社後の『横浜新報』にも、お伽倶楽部の広告が掲載されている。10月31日には、横浜お伽倶楽部から出された。同日、日本メソジスト横浜教会でお伽倶楽部を開催すること、内容は尾上新兵衛の「戦争ノ味」と押川春浪の「世界武者修行」などで、会費3銭と記している。12月15日には、お伽倶楽部会長久留島武彦名で出された(図3)。第6回お伽倶楽部を19日・20日喜楽座にて開催し、川上一座のお伽芝居「桃太郎」と「こぶ取」、巌谷小波のお伽噺に関する講話を行なうことを告げている。この時は、白券1円・青券50銭・赤券(子供)10銭の入場料を徴収した。

図3 第6回お伽倶楽部の広告
(『横浜新報』明治36年12月15日東京大学明治新聞雑誌文庫所蔵)
図3 第6回お伽倶楽部の広告(『横浜新報』明治36年12月15日東京大学明治新聞雑誌文庫所蔵)

その後、久留島は日露戦争に従軍することとなり、お伽倶楽部は中断するが、明治39年3月に、子供のための社会教育機関と位置づけて再開された。

図4 日露戦争後のお伽倶楽部の人々
久留島は真中の列右から2人目(生田葵『お話の久留島先生』より)
図4 日露戦争後のお伽倶楽部の人々 久留島は真中の列右から2人目(生田葵『お話の久留島先生』より)

横浜においては、久留島従軍中の明治38年1月23日付『横浜貿易新聞』に、巌谷や磯が開催したお伽倶楽部の記事が載った。盛会により、以後毎月行なわれると予告している。明治時代の終わり頃には『横浜貿易新報』主催による児童大会が開催されるようになるが、改めて紹介したい。

(上田由美)

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