横浜開港資料館

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「開港のひろば」第112号
2011(平成23)年4月27日発行

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資料よもやま話
『横浜新報』と久留島武彦
 −横浜で始まったお伽倶楽部

はじめに

口演童話家、童話作家として知られる久留島武彦は、明治7年(1874)6月、大分県玖珠郡森町(現在の玖珠町)に生れた。青年時代に関西学院で学ぶが、卒業間際の明治27年12月に徴兵され、近衛師団に配属になった。当時日清戦争が始まっていたが、久留島は入隊から新兵としての軍隊生活を原稿にまとめ、博文館の代表的な雑誌である『少年世界』に送った。それが、尾上新兵衛の名前で「近衛新兵」と題して掲載されて好評を博した。そして、この時同じ隊にいて親しくなった木戸忠太郎(木戸孝允の息子)を通じ尾崎紅葉を知り、さらに『少年世界』主筆だった巌谷小波(いわや さざなみ)に紹介された。久留島は、巌谷を中心に木曜会を開催し、文学者たちとの交流をはかった。明治後期には、児童文化活動に取り組んでいる。

図1 久留島武彦(生田葵著『お話の久留島先生』より)
図1 久留島武彦(生田葵著『お話の久留島先生』より)

この時期、明治31年に『神戸新聞』の創設に携わったのを初めとして、『大阪毎日新聞』、『横浜新報』、『中央新聞』の各社で記者として活躍している。なかでも、『横浜新報』在社中に、最初のお伽噺倶楽部を日本メソジスト横浜教会で開催した事が知られている。

ここでは、今まであまりふれられていない『横浜新報』在社中の久留島とお伽倶楽部について紹介したい。

『横浜新報』記者として

『横浜新報』は、明治34年(1901)年2月、横浜通信社の日比野重郎と『横浜貿易新聞』の記者であった野澤藤吉(枕城)が創刊した『横浜毎夕新聞』を前身とする。佐藤虎次郎を社長に迎え、明治35年1月に改題した。明治37年7月には、実業専門紙であった『横浜貿易新聞』と合併し、『貿易新報』と改題し、『横浜貿易新報』から現在の『神奈川新聞』へと続いている。

『横浜新報』は、原紙がほとんど残されていないが、横浜開港資料館では、東京大学明治新聞雑誌文庫所蔵の同紙を複製し、公開している。(複製は、明治35年3月−6月、8月−12月、明治36年3月−6月、10月−12月、欠号有り)

明治35年から翌年にかけての『横浜新報』は、横浜の貿易に関する事情だけでなく、神奈川県下各地へ地域の情報を伝え、勢力拡大に着手していた。久留島は、明治35年(1902)10月以降翌年7月から9月の間に在社したが、その時期とも重なる。久留島の入社により、社会面の充実もはかっていた。

明治35年10月16日付の『横浜新報』に、当時久留島が在社していた海門商会を退社した旨の広告が掲載された。翌17日の紙面には、社員久留島を県下各地方に派遣して各地の事情や最近の出来事を掲載するという横浜新報社の社告が載り、21日から翌月8日まで、久留島武彦の署名で「武相巡り」が連載された(19日には1回のみ「兵衛子」名で「武相めぐり」が掲載されたが、これも久留島の手によるものかも知れない)。久留島は、川和(現在横浜市都筑区)、長津田(現在横浜市緑区)、原町田(現在東京都町田市)、厚木を訪れて、川和では菊で有名な中山恒三の松林圃をたずね、ほかにも長津田の読書家や原町田郵便局の模範逓送人など、人々や土地の様子を紹介し感想を述べている。

同年12月2日には「独逸土産おとぎ芝居」が掲載された。それまで3年間ドイツに滞在していた巌谷小波が帰国し久留島に語ったもので、「お伽文学の元祖小波山人の直話」として紹介した。ドイツで行なわれているお伽芝居は、お伽噺を芝居に仕組んだもので、子供の趣味の啓発と、知らずしらずの間に教育上の智識を吹き込む事には非常に効果のある理想的なものなので、我国にもとり入れたいと言う。記事は続いているようだが、残念ながらこの後の新聞は見つかっていない。

翌年『横浜新報』は、それまで月曜休刊だったのを年中無休とした。4月5日からは、日曜日に読者の頁を一面に設け記事を募集した。そして、巌谷小波選の懸賞俳句も、数回行なわれている。

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