横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第112号
2011(平成23)年4月27日発行

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展示余話
イセザキ界隈成立前史

学校歯科医と横浜市学校歯科医会

明治31(1898)年、「公立学校ニ学校医ヲ置クノ件」の勅令が公布され、公立学校への学校医設置が定められたが、学校歯科については、規定されることはなかった。

大正期になり、学校保健上の問題の一つとして、齲歯(うし)の問題が取り上げられるようになると、大正3(1914)年には、東京府立第三高等女学校に、また大正10(1921)年には東京市赤坂区氷川小学校に歯科診療施設が設けられるなど、学校での歯科検診が行われるようになった。

大正14(1925)年に、青森県が「学校医規則」を改定し、学校歯科医をその中に追加したのを初めとして、各都道府県も同様の規定を設け、学校歯科医の身分と職務が定められ、その活動はより活発化していった。

昭和2(1927)年、各地で始められた学校歯科医の活動に刺激を受け、横浜で自主的に学校歯科の活動を始めた七名の歯科医師がいた。佐藤直住・榊原勇吉・大石敬・田村豊・塚田宗夫・岸昌平・森憲清の7名は、横浜市立一本松(いっぽんまつ)小学校に自費で歯科治療室を設け、各自週半日を治療にあてた。6歳臼歯に着目し、従来行われることの少なかった、検診と治療時の器具の消毒や、問題とされていた不適正金冠による治療を廃し、より歯の永続性を考えた治療法を行うなど、その治療法は、当時画期的な内容であったといわれている。

当時の日本歯科医師会会長、血脇守之助(ちわき もりのすけ)が明陽会(めいようかい)と名付けたこの団体は、「健康の基礎を学校で作れ」というパンフレットを作成した(写真3)。

写真3 明陽会パンフレット 昭和2(1927)年 榊原紀男氏所蔵
写真3 明陽会パンフレット 昭和2(1927)年 榊原紀男氏所蔵

パンフレットには、「結核と児童口腔衛生」と題し、当時罹患率の高かった結核の予防には、口腔内の清潔と健全な歯による栄養の吸収が不可欠であるとする説を引用し、児童期の口腔衛生の重要性を説き、「小学校歯科診療所設置」を提唱している。

明陽会の活動の影響もあり、昭和3(1928)年3月3日、神奈川県は学校医に関する調査を行う旨の通達を出した。ついで同年11月27日、神奈川県学務部長から学校管理者および学校長に対して学校歯科医をおく旨の通達が出された。

しかし学校歯科医の設置は進まず、日本歯科医師会が昭和7(1932)年に行った神奈川県下の学校歯科医調査では、学校歯科医をおく学校は10校、歯科治療設備のある学校は5校、従事する歯科医師は19人となっている。東京においては、学校歯科医をおく学校が308校、設備のある学校98校、従事する歯科医数が268人であり、神奈川県の学校歯科行政は全国的にみて遅れていたことがうかがえる。

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