横浜開港資料館

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「開港のひろば」第112号
2011(平成23)年4月27日発行

表紙画像

企画展
開館30周年記念 Part1

たまくすの木が見た横浜の157年
 −ペリー来航から開港資料館まで

「由緒の玉楠が欲しい」

『横浜貿易新報』(現『神奈川新聞』)一九三二年一月一三日号に、みごとに再生したたまくすの写真とともに、右のような見出しを付けて次の短い記事が載った。

米国領事は新築成った米国領事館の構内へ由緒の玉楠を移植したいと近く市へ願い出るそうである。玉楠は今英国総領事館内にある。震災に焼けたがまた芽を吹き出して生々としている。

日米和親条約調印の目撃者であるたまくすが最も関係の深い国はアメリカだとして、再建を果たしたアメリカ領事館が自館への移植を願ったのだろうか。同領事館は同年、山下町6番地(現ホテルモントレ横浜所在地)にモルガン設計によるホワイト・ハウスに似せたデザインで完成した。敷地は日本政府からの永代借地であり、関係自治体である横浜市と神奈川県、日本政府、借地者のイギリス総領事館とアメリカ領事館の5者間でその後、どのような交渉がおこなわれたか否かは不明だが、たまくすは今の場所にとどまった。

図9 『横浜貿易新報』 1932年1月13日号
『横浜貿易新報』 1932年1月13日号

ちなみにイギリス総領事館はアメリカより約2ヵ月早く完成し、「在浜復興建築のトップ 英国領事館の新装」というタイトルで、たまくすとその新しい建物の写真が同紙31年10月30日号に掲載された。

以上2つの記事は同僚の松本洋幸調査研究員の教示による。

なおアメリカ領事館の建物は、1979年開業のザ・ホテルヨコハマ(現ホテルモントレ横浜)建設にともない取り壊された。

開港資料館・横浜市のシンボルとして

震災後、横浜は貿易都市から京浜工業地帯の中心都市となって、発展をとげていった。しかし太平洋戦争が始まり関内と周辺の町は空襲で大きな被害を受けた。戦後もアメリカ軍に長く接収され、復興が遅れた。

戦災に遭わなかったたまくすは、戦後、再びイギリス総領事館の庭木となった。1972年、領事部が東京の大使館に移転したため、領事館としての役目を終えた。幕末からおよそ100年間、たまくすはイギリス(総)領事館の庭木でありつづけたことになる。

そして1981年6月2日、この記念の地に開港資料館が開館し、資料館の、そして横浜市のシンボルとなって今日に至っている。

図10 開港資料館開館式 1981年6月2日 右手がたまくす
開港資料館開館式 1981年6月2日 右手がたまくす

たまくすはこれからも静かに、当館と横浜市の歩みを見守っていくに違いない。

(中武香奈美)

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