横浜開港資料館

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「開港のひろば」第110号
2010(平成22)年10月27日発行

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企画展
賑わいを生み出すもの

喜楽座の躍進と苦悩

下田座の流れをくむ羽衣座は、明治期、東京・関西の多くの一流役者を受けいれる小屋として存在した。

しかしながら、明治末期になると羽衣座にかげりがみえはじめる。対して台頭したのが賑町の喜楽座であった。喜楽座の特徴は、19世紀末から娯楽の世界に参入した活動写真(映画)に充分対応しつつ、明治の名優、九世団十郎・五世菊五郎・初世左団次が没した後の一流役者たちののぼりを上げたことであった。

長者町から賑町をのぞむ 右手が椅子席に改造された喜楽座
大正中期 当館蔵
長者町から賑町をのぞむ 右手が椅子席に改造された喜楽座 大正中期 当館蔵

喜楽座は、日露戦争の実況フィルムであたりをとったのち、明治39(1906)年8月19日から、フィルムを単色で染めた「極彩色活動大写真会」を興行し、フランス作品である「世界一の馬鹿大将と粗忽の従者との滑稽」や「青春男女結婚の邪魔」を上演した。この両作は文芸喜劇映画のさきがけとされ、国内では喜楽座で初めて公開された。フィルムをもたらしたのはマニラ活動写真会なる巡業隊(スペイン人か)。このフィルムは前者が「ドン・キホーテ」、後者が「セビリアの理髪師」であった。

その後の喜楽座については拙文「『団菊』以後の横浜」(『開港のひろば』第82号・平成15年10月発行)で若干ふれた。大正期になって、朝日座と改名したのち映画館に転業した賑座と、火災によって廃業した羽衣座の、主要な役者は喜楽座に引き継がれた。他方、ほぼ同時期に進行したのが娯楽資本・松竹の歌舞伎座を中心とする東京の主要劇場の掌握であった。さらに松竹は鳴かず飛ばずの劇場であった横浜座を買収し、傘下の一流役者を送り込んだ。喜楽座は大歌舞伎ののぼりを上げることが出来なくなった。

役者をかかえた喜楽座は、舞台上の実演に、フィルム映像を織り込んで、一つの筋立て仕立てる「連鎖劇(れんさげき)」に活路を見いだしていった。喜楽座の連鎖劇の特徴は、いまだ映画自体が芝居の書き割りを背景に撮影することが支配的であった時代に、横浜の名所を舞台としたロケーションを敢行し、横浜の観客に提供して人気を博したことであった。

しかし大正6(1917)年6月の警視庁令によって芝居小屋でのフィルム上映が制約されることとなった。それを契機に連鎖劇フィルムの制作が落ち込み、喜楽座の横浜を舞台とした連鎖劇も終わりをつげることとなる。連鎖劇というスペクタクルな興行手法をもぎとられた喜楽座は、実演と映画とをセットにした番組などで対応することを余儀なくされるのである。

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