横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第109号

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第109号
2010(平成22)年7月28日発行

表紙画像

展示余話
田園の記者・廣田花崖(ひろたかがい)の横顔

川和教会とスーザン・プラット・毛利官治

『田園』が刊行された大正14(1925)年、川和に共立女子神学校伝道所(現在の川和教会)が開設された。中山恒三郎(なかやまつねさぶろう)・幸三郎(こうざぶろう)兄弟の家作を借りて日曜教会と礼拝が開かれたのが始まりである。

『川和教会宣教五十年記念誌』によれば、川和が伝道地として選ばれた理由の一つとして、廣田花崖(ひろたかがい)の存在を挙げている。すなわち共立女子神学校のスーザン・プラット(校長)と城戸順(伝道部長)は、神奈川から市ヶ尾まで花崖のもとを度々訪れてキリスト教の信仰に導き、花崖(かがい)はプラットから英語を学んだという。「田園配本先」には、大正14年11月10日の欄に、「城戸順・プラット伝道部 五部」とある。

『花崖先生小史』によれば、彼がキリスト教に入信したのは、大正3年。指路教会(しろきょうかい)で毛利官治牧師から洗礼を受けたという。花崖(かがい)は、『光の都』『基督再臨の考察』などの翻訳書を刊行している。

その後の川和伝道所は、共立神学校や指路教会(しろきょうかい)から多くの指導・援助を受けながら、夏期学校などの活動を続けた。昭和4(1929)年8月、指路教会(しろきょうかい)の柏井光蔵・副牧師が残した「川和伝道報告」(『指路』181号、『横浜指路教会(よこはましろきょうかい)百二十五年史』に収録)は、当時の伝道風景をよく伝えている。小学校を2週間借り切って共立神学校の神学生等が行った夏期聖書学校には、4、50人の女生徒らが集まり、子供たちの賛美歌や、聖書の暗唱で賑わっていた。また別の会場では22人の青年男女が、約1時間の熱弁に熱心に耳を傾け、終了後に男女各1名が求道の決心を示した。柏井は最後に、「川和の伝道には時の余裕を得てもつと力をつくし度く思ふ、青年の伝道は相当有望に思われる」と結んだ。なお、花崖は、昭和11年に川和教会の役員を一時つとめた。

花崖文庫(かがいぶんこ)には、廣田、プラット、毛利の3人が並んだ写真【写真6】がある。3人を囲むのは、共立女子神学校の生徒たちであろうか。この写真は、花崖山房(かがいさんぼう)に電話が開設された昭和8年当時のものと言われている。農村の伝道者・花崖(かがい)の横顔を伝える貴重な1枚と言えよう。

写真6 開設された電話機を囲んで
(電話機の右が花崖、その左にプラット女史、その左に毛利牧師)

(株)廣田商事所蔵
開設された電話機を囲んで

【謝辞】本稿の執筆にあたり、(株)廣田商事、中山浩二郎氏より貴重な資料をご提供頂き、相澤雅雄氏より有意義なご教示を賜りました。深謝申し上げます。

(松本 洋幸)

≪ 前を読む

このページのトップへ戻る▲