横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第109号
2010(平成22)年7月28日発行

表紙画像

展示余話
田園の記者・廣田花崖(ひろたかがい)の横顔

田園の記者・廣田花崖(ひろたかがい)

大正中期から昭和初期にかけて、『横浜貿易新報』の記者として、都筑郡(現在の横浜市青葉区・都筑区・緑区・旭区及び川崎市麻生区付近)を中心に活躍した廣田花崖(ひろたかがい)という人物がいた【写真1】。彼は横浜北郊の情報を精力的に送り続けたほか、農業関係書・時代小説・童話など数多くの作品を残した。

写真1 サイドカーで取材に出かける廣田花崖(ひろたかがい)(右端の人物) (株)廣田商事所蔵
サイドカーで取材に出かける廣田花崖(ひろたかがい)(右端の人物)

花崖(かがい)は、明治20(1887)年都筑郡下谷本(しもやもと)(現在、青葉区)に生まれた。本名を鉄五郎と言い、地元で幼少時代を過ごした後、中郡立農業学校(現在、平塚農業高校)に入学した。この頃、花水川(金目川下流)の河畔に下宿していたことから、「花崖」(かがい)と号するようになった。同校を卒業後、盛岡煙草製造所、千葉県三里塚の下総御料牧場(しもうさごりょうぼくじょう)などに勤務した後、陸軍技手となったが、公務中負傷し、両足切断を余儀なくされた。

大正時代に地元の中里村に帰った花崖は、市ヶ尾に花崖山房(かがいさんぼう)を構え、本格的な文筆活動に入る。『横貿』には、大正7(1918)〜8年に「農村研究」「田園小品」と題して、都筑郡の田園生活を綴った随筆を寄せた。当時、農村の青年たちの多くが都市へと向かい、農村の荒廃が叫ばれていた。花崖(かがい)は、これらの作品のなかで、農村の豊かな自然と、そこで暮らす人びとの営みの尊さを、鮮やかな筆致で描き出した。また花崖山房(かがいさんぼう)で、農村の青年たちの教育にも当たった。

三宅磐(みやけいわお)と廣田花崖(ひろたかがい)

田園作家・廣田花崖(ひろたかがい)の名を世に知らしめたのは、大正14(1925)年に刊行された随筆集『田園』【写真2】であった。出版を勧めたのは、『横貿』社長の三宅磐(みやけ いわお)。二人を結びつけたものは何だったのだろうか。

写真2 『田園』(花崖山房(かがいさんぼう)出版部、大正14年) 当館所蔵
『田園』(花崖山房(かがいさんぼう)出版部、大正14年)

前号で紹介した通り、三宅は、農村の青年たちに大きな期待を抱き、マラソン競走会・青年大会を毎年開催するなど、大正期の『横貿』は、「県下青年団の最も親しい友達」(『神奈川県青年団聯合会(かながわけんせいねんだんれんごうかい)第三回青年団競技大会』大正14年)を自負していた。こうした社風は、青年たちに「田園に帰れ」と訴える花崖(かがい)の主張と軌を一にするものであったろう。三宅の夫人・千代は、「主人在世中度々郷土の青年の方が、遠き道をものともせず、人力車或は自動車に花崖(かがい)氏を擁してお訪ね下さった」と、青年を介した三宅と花崖(かがい)の交友を振り返っている(小方近造編『花崖先生小史』)。

この頃の花崖(かがい)と、三宅や『横貿』の政治的立場も一致していた。花崖(かがい)の地元・都筑郡は、明治中期以降、衆院選・県議選で政友派が議席を独占していた。花崖は兄・長重(おさしげ)らとともにこれを批判、都筑研究会を組織し、郡内の「政権交代」を訴えた。長重(おさしげ)の県議選出馬(大正13年・昭和2年)に際して、花崖(かがい)は『横貿』紙上で兄の側面支援を行った。政友会と対峙して政界の刷新を唱える三宅や『横貿』にとっても、政友派の牙城の一角を切り崩すことは願ってもないことであったろう。

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