横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第109号
2010(平成22)年7月28日発行

表紙画像

展示余話
田園の記者・廣田花崖(ひろたかがい)の横顔

『田園』の配本先

『田園』に話を戻す。同書は、大正14(1925)年11月の出版以来、各方面で絶賛された。発行からわずか3ヶ月間で5版を重ね、翌年には文部省指定書となり、廣田花崖(ひろたかがい)の代表作となった。

花崖(かがい)の資料が保管されている花崖文庫(廣田商事)には、『田園』の配本先を記した帳簿(以下、「田園配本先」【写真3】)が残されている。同書刊行直前の大正14年10月から翌年3月まで、日付ごとに配本先(購入者ヵ 本人の自筆署名と思われる)と部数が記されている。先行予約を取る意味もあったのであろう。花崖(かがい)は、この帳簿をもとに、自筆のサインを入れた『田園』を送付したものと思われる。配本先を合計すると、のべ211人、1328部に及ぶ。左頁の【表】は、30部以上の配本先一覧である。一見して都筑郡内小学校への配本が目立つが、花崖(かがい)ら都筑研究会の人々が支援していた代議士(憲政会)・小野重行への200部なども特筆される。

写真3 「田園配本先」 (株)廣田商事所蔵
「田園配本先」

川和の松林圃と中山兄弟

『田園』の刊行と前後して、都筑郡川和の中山恒三郎(なかやまつねさぶろう)が経営する菊園・松林圃(しょうりんぽ)の連載記事が、『横貿』に2度掲載された。広さ3000坪を誇る同園は、幕末以来、三代の当主が菊の改良に努め、80以上の品種を宮内省に献納するなど、全国にその名を知られていた。『横貿』は、「川和の菊で名代 中山一家」(大正14年11月3〜5日)の中で、菊作りを始めた文政11年から99年目にあたる中山家と、中国の改良家も一目置く同家の菊を「国際的の誇り」と称えた。

続いて『横貿』は、11月22・25・26日の3日間、「県下絵行脚」と題する連載を組んだ。これは、横浜ゆかりの日本画家・牛田けい村(うしだけいそん)と洋画家・川村信雄が松林圃(しょうりんぽ)周辺をスケッチして、同行の記者がその様子を紀行文で紹介するという企画である。この時、花崖(かがい)も一行に合流し、「田園配本先」の11月20日の欄に、川村・牛田の署名(各1部)を貰っている【写真3】。

もっとも花崖(かがい)は何度か松林圃(しょうりんぽ)を訪れており【写真4】、中山恒三郎(つねさぶろう)も「田園配本先」に名前を連ねている(30部配本)【】。

写真4 松林圃にて(車上の人物が花崖) (株)廣田商事所蔵
松林圃にて(車上の人物が花崖)
【表】『田園』の配本先一覧
年月日 氏名 冊数 備考
14.11.18 小野 重行 200 〔衆議院議員〕
14.12.8 藤下 悌武 100 補習副読本〔鉄尋常小学校々長〕
15.1.23 野山 義蔵 85 鎌倉師範 中65冊だけ署名を願ます
14.10.18 廣田 長重 50 〔廣田花崖の兄〕
14.12.1 野村  一 50 補習副読本用〔鴨居尋常小学校々長〕
14.12.15 岩崎 春吉 50 都田校長〔都田尋常高等小学校々長〕
15.1.1 高橋松風枝 50  
14.10.27 中山恒三郎 30 〔菊園・松林圃の経営者〕
14.11.17 三宅  磐 30 〔横浜貿易新報社々長〕
14.12.2 井上 恒治 30  
14.12.2 黒沼 かの 30  
15.2.7 飯島 一正 30  

「田園頒布先控」より作成、〔〕内は筆者が補った肩書き。

花崖(かがい)は、恒三郎(つねさぶろう)の弟で、製薬工場を営んでいた幸三郎(こうざぶろう)(田園五部を配本)とも親交があったようである。中山幸三郎(なかやまこうざぶろう)の旧蔵アルバムには、花崖山房(かがいさんぼう)【写真5】など、花崖(かがい)の写真数枚が確認できる。また幸三郎(こうざぶろう)の日記(中山浩二郎氏所蔵)には、次のような記述も見える。

写真5 花崖山房(かがいさんぼう)の廣田 中山浩二郎氏所蔵
花崖山房(かがいさんぼう)の廣田

午後平本氏宅ニ赴ク、花崖(かがい)氏来リシ為其相手ニ選バレシモノナリ、花崖(かがい)新婚の夢円(まどか)ナルラシ(昭和2年1月10日)

能弁家・花崖(かがい)の片鱗が垣間見える。ただし彼が池ノ内春子と結婚するのは3年後である。

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