HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第109号
「開港のひろば」第109号
|
展示余話
田園の記者・廣田花崖(ひろたかがい)の横顔
『田園』の配本先
『田園』に話を戻す。同書は、大正14(1925)年11月の出版以来、各方面で絶賛された。発行からわずか3ヶ月間で5版を重ね、翌年には文部省指定書となり、廣田花崖(ひろたかがい)の代表作となった。
花崖(かがい)の資料が保管されている花崖文庫(廣田商事)には、『田園』の配本先を記した帳簿(以下、「田園配本先」【写真3】)が残されている。同書刊行直前の大正14年10月から翌年3月まで、日付ごとに配本先(購入者ヵ 本人の自筆署名と思われる)と部数が記されている。先行予約を取る意味もあったのであろう。花崖(かがい)は、この帳簿をもとに、自筆のサインを入れた『田園』を送付したものと思われる。配本先を合計すると、のべ211人、1328部に及ぶ。左頁の【表】は、30部以上の配本先一覧である。一見して都筑郡内小学校への配本が目立つが、花崖(かがい)ら都筑研究会の人々が支援していた代議士(憲政会)・小野重行への200部なども特筆される。
川和の松林圃と中山兄弟
『田園』の刊行と前後して、都筑郡川和の中山恒三郎(なかやまつねさぶろう)が経営する菊園・松林圃(しょうりんぽ)の連載記事が、『横貿』に2度掲載された。広さ3000坪を誇る同園は、幕末以来、三代の当主が菊の改良に努め、80以上の品種を宮内省に献納するなど、全国にその名を知られていた。『横貿』は、「川和の菊で名代 中山一家」(大正14年11月3〜5日)の中で、菊作りを始めた文政11年から99年目にあたる中山家と、中国の改良家も一目置く同家の菊を「国際的の誇り」と称えた。
続いて『横貿』は、11月22・25・26日の3日間、「県下絵行脚」と題する連載を組んだ。これは、横浜ゆかりの日本画家・牛田村(うしだけいそん)と洋画家・川村信雄が松林圃(しょうりんぽ)周辺をスケッチして、同行の記者がその様子を紀行文で紹介するという企画である。この時、花崖(かがい)も一行に合流し、「田園配本先」の11月20日の欄に、川村・牛田の署名(各1部)を貰っている【写真3】。
もっとも花崖(かがい)は何度か松林圃(しょうりんぽ)を訪れており【写真4】、中山恒三郎(つねさぶろう)も「田園配本先」に名前を連ねている(30部配本)【表】。
年月日 | 氏名 | 冊数 | 備考 |
---|---|---|---|
14.11.18 | 小野 重行 | 200 | 〔衆議院議員〕 |
14.12.8 | 藤下 悌武 | 100 | 補習副読本〔鉄尋常小学校々長〕 |
15.1.23 | 野山 義蔵 | 85 | 鎌倉師範 中65冊だけ署名を願ます |
14.10.18 | 廣田 長重 | 50 | 〔廣田花崖の兄〕 |
14.12.1 | 野村 一 | 50 | 補習副読本用〔鴨居尋常小学校々長〕 |
14.12.15 | 岩崎 春吉 | 50 | 都田校長〔都田尋常高等小学校々長〕 |
15.1.1 | 高橋松風枝 | 50 | |
14.10.27 | 中山恒三郎 | 30 | 〔菊園・松林圃の経営者〕 |
14.11.17 | 三宅 磐 | 30 | 〔横浜貿易新報社々長〕 |
14.12.2 | 井上 恒治 | 30 | |
14.12.2 | 黒沼 かの | 30 | |
15.2.7 | 飯島 一正 | 30 |
「田園頒布先控」より作成、〔〕内は筆者が補った肩書き。
花崖(かがい)は、恒三郎(つねさぶろう)の弟で、製薬工場を営んでいた幸三郎(こうざぶろう)(田園五部を配本)とも親交があったようである。中山幸三郎(なかやまこうざぶろう)の旧蔵アルバムには、花崖山房(かがいさんぼう)【写真5】など、花崖(かがい)の写真数枚が確認できる。また幸三郎(こうざぶろう)の日記(中山浩二郎氏所蔵)には、次のような記述も見える。
午後平本氏宅ニ赴ク、花崖(かがい)氏来リシ為其相手ニ選バレシモノナリ、花崖(かがい)新婚の夢円(まどか)ナルラシ(昭和2年1月10日)
能弁家・花崖(かがい)の片鱗が垣間見える。ただし彼が池ノ内春子と結婚するのは3年後である。