横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第109号

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第109号
2010(平成22)年7月28日発行

表紙画像

企画展
横浜山手 コスモポリタンたちの1世紀

明治時代のミシェル・デンティチ(左端)一家
1897年撮影 リナ・デンティチ氏蔵
明治時代のミシェル・デンティチ(左端)一家

世界有数の国際都市横浜は、開港後に作られた外国人居留地がその始まりです。1859(安政6)年、横浜は港を開いて諸外国との貿易を始めましたが、幕府は外国人が自由に土地を借りて居住したり商売をしたりすることをゆるさず、一定の地域に限定しました。それが外国人居留地です。

欧米各国から来港した外国人の多くは商人でした。まず開港の翌年から山下町の開発が本格的に始まり、外国商館がつぎつぎと建ち並ぶようになりました。1867(慶応3)年には山手も商人たちの家族の住宅地として居留地に組み込まれました。

かれらは山手に家族と暮らして山下町の外国人ビジネス街で仕事をするという生活を楽しみ、国籍の違いを超えたコスモポリタンな社会を築いていきました。

しかし関東大震災(1923年)、さらに日本の第二次世界大戦参戦(1941年)によって、多数の人びとが長年、住み馴れた横浜を去りました。

とくに関東大震災の影響は大きく、数千人の人びとがいた欧米外国人社会は、関東大震災直後にはわずか250人ほどに激減してしまいます。助かった人びとの多くは神戸や本国、あるいは他の国へ避難し、そのまま戻って来なかった人びともいました。

第二次世界大戦も大きないたみを与えました。戦時中、横浜に残る道を選択した敵国側の外国人たちは財産を差し押さえられ、山手の家をおわれ、あるいは抑留所に収容されて監視を受ける日々を送りました。

居留地制度の撤廃(1899年)と、第一次世界大戦(1914〜1918年)が与えた影響も小さくありませんでした。

そのような状況下にありながら横浜にとどまった人びと、再び戻ってきた人びとも少なからずいました。

本展示では、横浜山手に暮らしたご子孫の家々に伝わる思い出の品々を通して、幕末から戦後にかけた横浜の欧米外国人社会の一世紀の歴史をたどります。

(中武香奈美)

このページのトップへ戻る▲