横浜開港資料館

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「開港のひろば」第109号
2010(平成22)年7月28日発行

表紙画像

企画展
資料に刻まれた家の記憶

今回の展示では、横浜山手に暮らした10を超える欧米外国人のご子孫のお宅からたくさんの資料を出陳していただいた。どの資料もそれぞれの家のプライベートな思い出の品であり、ほとんどがこれまで一般に公開されることがなかった。しかしプライベートとは言え、これらもまたまぎれもなく横浜の貴重な歴史資料のひとつであり、今回の展示への出陳をお願いしたところ、ご快諾いただいた。

紙面に限りがあり残念ながらすべてのご子孫と所蔵資料を紹介することはできないが、いくつかの家とおもな資料をつぎに紹介したい。

中華街で長年、ベーカリーを営なんだデンティチ家

ミシェル・デンティチ(Michel Dentici)は1845年、イタリアのシチリア島に生まれた。長靴の形をしたイタリア半島のつま先部分にあたる島で、地中海の中心に位置する。1930年の死亡時に用意された追悼文の経歴によると、イタリア海軍巡洋艦乗組みの料理人として1873年に来浜したという。ミシェルが28歳の時ということになる。またそれ以前の五年間、ロシア公使館で料理長を経験したともあるが、明らかでない。

さらに追悼文によると、翌74年、ヨーロッパ風ベーカリーと家族経営のペンションを始めたとあるが、外国人居留地の会社年鑑・人名録である『ジャパン・ディレクトリー』に名前が載るのはずっと後の81年からであり、中華街の186番に開いたプロヴァンス風ベーカリー店(Boulangerie provençale)店主として登場する。開業年ははっきりしない。

中華街(186番)にあったデンティチのベーカリー
『日本絵入商人録』 1886年刊 当館蔵
中華街(186番)にあったデンティチのベーカリー

このベーカリー開業年とされる74年の3月、フランス郵船ニール号が南伊豆沖で座礁・沈没し百名近い犠牲者を出すという海難事故がおこった。当時の横浜の新聞(『ジャパン・ウィークリー・メール』3月22日・4月11日号)によると4人が助かり、そのひとりが同船にパン職人として乗り組んでいたミシェルという人物で、ミシェル・デンティチと同一人物と考えられている。

リナ・デンティチ(Lena Dentici)は第二次大戦後、デンティチ家の三代目ダンテ(Dante)と結婚した。リナは日本郵船の信濃丸の船長をつとめたジョン・ソルター(John Salter)の末娘として関東大震災直前の1923年8月に山手に生まれた。デンティチ家にはソルター家の品々も伝わっている。45年5月29日の横浜大空襲で山手のソルター家も焼け、戦後、戻ってきたリナの母親が焼け跡から拾った銀製のボンボントレーもそのひとつである。輝きを失い変形したトレーは一家の平和な日々を思い起こさせるものだったのだろうか。戦後、山手の焼け跡からめぼしい物を盗む輩が横行し、何も残っていなかったという。

日本郵船信濃丸船長ジョン・ソルター
リナ・デンティチ氏蔵
日本郵船信濃丸船長ジョン・ソルター
ソルター家の遺品の銀製食器
真ん中が焼けたボンボントレー リナ・デンティチ氏蔵
ソルター家の遺品の銀製食器

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