横浜開港資料館

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「開港のひろば」第109号
2010(平成22)年7月28日発行

表紙画像

特別資料コーナー
新子安海水浴場

横浜では幕末から外国人居留地沖合のボートや本牧十二天(ほんもくじゅうにてん)・富岡などで、外国人が海水浴を行なってきた。しかし、日本人には馴染みがなく、海水に入るのは、水泳や病気の治療・予防の「潮湯治」(しおとうじ)などが主な目的であった。レジャーとしての海水浴が定着するのは、明治後期から大正期にかけてのことである。このころ、全国各地に鉄道会社や新聞社などが海水浴場を設置するようになったが、横浜でも開設されている。

明治43年1月に京浜電気鉄道が発行した『京浜遊覧案内』は、子安あたりの海岸は「波清くして鹹(しお)濃ければ、海水浴場に適好の地なり、近頃土地の有志者主唱して海浜一帯数万坪の地を相し、園には四季の花を栽(う)ゑて瀟洒(しょうしゃ)なる亭舎を置き、客の需め(もとめ)に応じて酒飯を供し、浴室を建てゝ夏は潮浴、冬は温浴、各種の運動場をも設けて、一大遊園を開かんとする計画有り」と一大遊園地計画を紹介した。

明治38年に川崎から神奈川まで延長された京浜電気鉄道は、明治43年3月には子安と生麦の中間に新子安駅を設置した。田辺市太郎が子安村発展のため、所有地を京浜電気鉄道に寄付し実現したもので、『横浜貿易新報』(同年7月3日)は「交通の便を得、土地は将来有望の場所」になったと記している。しかし、一大遊園地計画の実現は難しかったため、荒井瀧蔵・宮内無二三らが、京浜電気鉄道重役守屋此助所有の子安海岸埋立地を利用し、同社及び報知社・東京毎日新聞社の協力を得て、海水浴場を開設した。

新子安海水浴場絵葉書 横浜開港資料館所蔵
新子安海水浴場絵葉書

『横浜貿易新報』や『東京毎日新聞』は7月2日に行なわれた新子安海水浴場開場式の模様を伝えているが、当日は昼夜百数十本の花火が打ち上げられて賑わったという。

海水浴場は、広さ150間(約272・8メートル)四方の海面で、更衣室兼休憩所が設けられた。余興が行なわれ、海上ブランコ・浮土俵・樽落としなどの設備を備えた。 京浜電気鉄道は、料金の割引も行なった。神奈川から新子安間は片道七銭、往復13銭のところ、入場者の便をはかり片道4銭、往復7銭にした。

翌年には都新聞社(みやこしんぶん)の主催となり、明治45年からは水泳を教える水泳練習所も設けられた。

横浜開港資料館所蔵の絵葉書には、海水浴場での催し物「蜜柑拾い」に興じる大勢の人々や、大きな麦藁帽子をかぶり、縞柄の水着を着た女性たちの姿、海水浴場開設と同時に海辺に開業した、活き魚料理と潮風呂が売りの割烹旅館「水明楼」などが写されている。

遠浅の海水浴場は女性や子供に人気が有り、東京からの入場者も多く、昭和はじめまで賑わった。

(上田由美)

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