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「開港のひろば」第108号
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『横浜貿易新聞』創刊120周年
地域メディアの誕生
―横浜・神奈川のオピニオンリーダーをめざして
横浜は、明治3年12月(1871年1月)にわが国初の日本語日刊新聞『横浜毎日新聞』が誕生したまちです。
20年後の明治23(1890)年、『横浜貿易新聞』が創刊されました。創刊したのは横浜の貿易拡大とともに発言権を増しつつあった横浜商人たちでした。当初は横浜貿易商組合の機関紙として、貿易や横浜の事情を伝える実業紙でしたが、しだいに一般紙の性格をつよめていき、明治39年『横浜貿易新報』(通称『横貿』)と改題しました。
明治43年に『横貿』は三宅磐を社長に迎えました。三宅は社説を駆使して都市問題を論じ、「都市」に対する人々の関心を高めるとともに、吉野作造・与謝野晶子ら著名な学者・評論家の寄稿を数多く掲載するなどして、横浜のオピニオンリーダーをめざし、『横貿』の新時代を築いていきました。
明治末から大正期にかけて新聞各社は、一般購読者の拡大につなげようとイベントを盛んに企画するようになります。『横貿』もまた、開港記念会館で児童大会や婦人講演会などを、また市内の会社・商店対抗野球大会を催すなど、さまざまなイベントを企画して広く購読者を獲得していきました。その一方で県下全域へ取材・販売網を拡げていき、『横貿』の影響力は県内に広く浸透してゆくこととなりました。
大正12(1923)年3月、当時としてはめずらしい4階建ての高層の新社屋を完成させ、『横貿』は最盛期を迎えました。ところが同年9月1日に関東大震災がおき、新社屋が倒壊するなど、大きな被害を受けてしまいました。しかし早くも同月13日には臨時号を出すなどし、翌年1月には本格的な復興を果たしました。
昭和期に入ると県下の地域振興に積極的に関わって勢力を伸ばしていきました。新興住宅地の人気投票をつうじて購読者の増大につとめたり、史跡名勝天然記念物の顕彰などもおこなっています。しかし日中戦争がはじまり、しだいに戦時色が深まっていくと、「一県一紙」政策によって『神奈川県新聞』に、さらに『神奈川新聞』と改題されていきました。
本展示は、今日の『神奈川新聞』の母体となった『横貿』の歩みとそこに集った人びとを紹介し、新聞が地域に果たした役割を明らかにします。
(上田由美・平野正裕・松本洋幸)