横浜開港資料館

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「開港のひろば」第108号
2010(平成22)年4月24日発行

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企画展
地域メディアの横顔

『横浜貿易新報』の黄金時代を築いた三宅磐は、新聞の社会的使命について、事実報道や世論喚起とともに、「社会の文化を促進する」ことにあると自負していた。この三宅の矜持を手がかりとして、明治後期から昭和初期に至る地域メディアの社会的機能について考えてみたい。

『横浜貿易新聞』から『横浜貿易新報』へ

日露戦争は近代日本が国力の多くを傾けた対外戦であり、写真・映像を含めて報道された。当時最大のメディアであった新聞は、日に何度も号外を発行して速報性をアピールし、戦況報道で部数を伸ばしていった。

明治37(1904)年5月、富田源太郎が『横浜貿易新聞』主筆に就任した。富田は『横貿』をはじめとする実業専門紙の勢力が低落傾向にあるとの認識を持ち、その欠点を「平板無味、趣の乏しきに」あるとみていた。富田は、「実業新聞の紙面にこそ実益と趣味との無尽蔵の存することを示さん」として、紙面の改革にとりかかった。当時、ライバル紙と目されていた『横浜新報』は、無休で、横須賀付録や足柄付録を発行し郡部への勢力拡大に着手していた。発行部数も『横貿』を上回っていた。同社社長佐藤虎次郎が提議した合併提案は、読者獲得と郡部への拡大をもくろみ、実業紙からの脱却を企図する富田にとって、まさに「渡りに船」であった。両紙合併に際し、『横貿』は『横浜新報』の社屋に移り、その号数を引き継いで、7月に『貿易新報』と改題した。富田は、横浜を語り横浜の主張を代表とする好機関にしたいと述べている。そして、隔日で「神奈川県十一郡」付録を発行した。

『貿易新報』は、日露戦争に従軍した県下および横浜市内の若者の日記や書簡を掲載して戦場の臨場感を伝え、戦死者の経歴と肖像を紙面に掲げて哀悼の意を表した。銃後の横浜の様子は、女性記者伊藤銓子の手で報道された。女性の目を通して伝えられた婦人団体の活動や、戦死者の家庭、負傷者の訪問記事などは、女性読者に受け入れやすかった。

明治39年12月、『貿易新報』は、二千号を機に紙名を『横浜貿易新報』(通称『横貿』)と改題した。翌年、紙面改良のため三色刷輪転印刷機を導入し、翌々年には、紙幅を8頁に拡大して一般紙への転換を本格化させた。

『横浜貿易新報』二千号紀念号 明治39(1906)年12月3日
(国立国会図書館所蔵)
『横浜貿易新報』二千号紀念号

『横貿』は、読者と広告を獲得する為に、様々な催しを行った。三大実業投票・五大商品投票などの人気投票や、自転車長距離競走会などのスポーツ事業、読者招待の観劇会・バーゲンデイ・古書展覧会など市民参加を求める催しもあった。伊勢参宮・松島団体遊覧などの旅行代理業者も兼ねた。

明治40年には横須賀支局を開設し、神奈川県内各地の読者に向けてニュースを集める体制を整えていった。明治41年9月の横浜鉄道開通をうけて、沿線の別荘地など用地売買の斡旋をはかった。

明治42年横浜開港五十年祭には、5日間にわたり「五十年祭紀念号」を増刊し、開港直後の昔話を集めた『横浜開港側面史』を発行して市民の歴史意識を高めた。この時初めての慈善演芸会を主催している。

『横貿』発行数は、『神奈川県統計書』によると、明治38年に平均1万部だったのが、3年後には13000部余りに増加した。

(上田由美)

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