横浜開港資料館

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「開港のひろば」第108号
2010(平成22)年4月24日発行

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資料よもやま話2
生糸売込商中居屋重兵衛店の経営悪化をめぐって

中居屋重兵衛は、開港直後の横浜で大量の生糸を集荷し、始まったばかりの生糸貿易に大きな位置を占めた売込商である。その扱い量は全輸出生糸の五割を超え、中居屋は開港直後の横浜でもっとも著名な商人であった。しかし、安政6(1859)年11月に、幕府から営業停止命令を受け、急激に経営を悪化させた。営業停止の理由について、私は、本誌105号で、長野県上田市生田飯沼地区で新たに発見された資料を題材に、店の屋根を銅葺きにした中居屋の店の普請があまりに華美であったことが、幕府の怒りに触れたことにあったことを明らかにした。

また、その背景に、急激な生糸貿易の拡大に危機感を強めた幕府の保守官僚が存在し、中居屋が見せしめのために処罰された可能性があることを指摘した。この点について、その後、上田市立博物館や三井文庫が所蔵する関係資料を閲覧することができたので、再度、中居屋の経営が悪化した原因について考えてみたいと思う。

中居屋の開店と諸藩の藩専売

中居屋が、開店以前から諸藩と関係を持ち、開店直後から会津藩・上田藩などの藩領で生産された生糸を輸出していたことは有名な話である(拙著『幕末明治の国際市場と日本』雄山閣出版発行)。その集荷方法についてはいくつかの資料に記述があり、諸藩が城下町に設置した産物会所に生糸を集めさせ、藩から委託を受けた城下町商人が中居屋に生糸を出荷したことが分かっている。また、中居屋に生糸を出荷することについては、諸藩から外国奉行に願書が提出され、幕府の認可によって諸藩と中居屋は貿易に進出することができた。

上田市立博物館蔵「滝沢家文書」(資料1)によれば、幕府への届け出は厳密なもので、各藩が輸出を希望する品名を外国奉行に届け出ることになっており、中居屋(資料中の中居撰之助は中居屋重兵衛の異名)が窓口となることも明記されている。

資料1
外国御奉行様江願出、御聞済ニ相成候品左ニ

  • 紀州様御産物
    塗物・木綿類・傘類・棕呂箒・棕呂皮・密かん・九年母・生蝋・干藻類・葛・陶器類・茶
  • 会津様御産物
    漆器類・人参・麻苧並織物・絹糸・同織物類・真綿・煙草・新刀剣同付属之小道具・藻草
  • 信州上田産物
    白絹糸同織物類・木綿・真綿・麻苧・うるし・紙類・生蝋・傘類・石炭あふら・松油・人参・麦粉・鉛・鋸並鉋・煙草

右之通、産物交易売込共、願人芝金杉片町中居撰之助と申者、取扱御聞済之由ニ候

幕府は、こうした方法を取ることによって貿易を掌握しようとしたと考えられるが、実際に貿易が開始されると、幕府が予想した以上に大量の生糸が輸出されることになった。その中心にいたのは上田藩や会津藩の生糸を輸出することを幕府から認められた中居屋であり、三井横浜店の手代は生糸貿易の盛んな様子を次のように伝えている(資料2、三井文庫蔵「永書」)。

資料2
十月八日、横浜店勤番、中塚徳次郎方より別啓ヲ以左ニ
異人行生糸之儀何程相納候哉、又ハ不残相断候哉之義御尋被仰聞、右は先便吉仲氏江得御意候通り三千斤丈ケ御請負申上置候得共、荷物着揃ニ相成不申ニ付、未相納不申候、且外方より相納候分、何程可在之哉御尋被仰聞、右は聢と難相訳り候得共、色々聞合候処、荒増左ニ
 阿蘭陀・イギリス、両国ニて凡是迄買入之分、三万五千斤
右之売主、凡左之通
 一万七、八千斤程は四丁目中居屋重兵衛名前
右方大山印ニて寄合身上之上、奥州・上州・甲州・信州・越後等之国々より糸商人荷主止宿致居、銘々ニ売捌キ、名前貸、口銭取ニ御座候、尤、不絶国々より荷主十人計宛止宿致居、旅籠屋同様ニ御座候、如右諸商売共諸方より荷主入込、宿口銭・歩合等ニて直取引致しニ付、肝心大金ヲ出シ普請等補理出店致し候者ハ実々難渋、右等之義も相止ミ候様、且於御上様も追々市中御取締方等被仰付候

資料は安政6(1859)年10月8日のものであり、中居屋が大量の生糸を外国商館に販売したと記されている。また、中居屋には奥州・上州・甲州・信州・越後の糸商人が集まり、中居屋の名義を借りて外国商館に生糸を販売しているとある。さらに、こうした事態を三井は苦々しく思い、幕府が近日中に取り締まりに着手するであろうと述べている。幕府の「御用商人」であった三井の発言であるだけに、中居屋を営業停止にしようとする幕府の動きを予測したものと言えそうである。

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