横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第108号
2010(平成22)年4月24日発行

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資料よもやま話2
生糸売込商中居屋重兵衛店の経営悪化をめぐって

城下町商人が記した記録から

中居屋をめぐる一連の事件について記した興味深い資料が上田市立博物館に残されている。この資料(資料3)は、上田町の町役人をつとめた宮下家に伝来したもので、上田藩が、万延元年(1860)4月に、横浜に生糸を出荷した城下町商人を処罰したことを記したものである。

資料3
   奉歎願口上書
私儀、横浜御開港ニ付、御産物之品々御差送り被遊候ニ付、右捌方手伝被仰付難有奉存罷在居候、然ル処、旧来懇意ニ取引仕候諸国商人之内、彼是乗合ニて御用之合間ニ商内仕候、然ル処、糸直段追々引上候故、相応之利渡ニ相成候処、御呼戻し被仰付候故、其侭帰国仕候処、不正筋ニ付、御叱之上、他所商御差留慎被仰付奉恐入居候処、格別之御慈悲ヲ以慎御免被成下難有仕合奉存候、然ル処、前段奉申上候通、急帰国仕候故、是迄売捌候利徳勘定其侭差置候義ニ御座候間、何卒右差引仕、利徳金受取帰国仕、御上様江御冥加上納仕、私儀も永続仕度奉存候間、前段之訳柄被為聞召、横浜迄往返十日、勘定中五日、都合十五日之間、他出御免被成下置候ハゝ莫大之御慈悲と難有奉存候、以上

原町 祐右衛門

資料によれば、処罰理由は、城下町商人が産物会所に集荷された生糸だけでなく、「御用」の合間に乗り合いで生糸を集荷し、多額の利益を上げたことであった。この結果、関係者は「産物世話役」を罷免され、「押込」を申し付けられた。上田藩が城下町商人を処罰したことと、中居屋が幕府から営業停止命令を受けたことの関係を示す資料は残っていない。しかし、三井の手代が述べたように、同時期に横浜では中居屋が藩専売の生糸と一緒に、その他の生糸を輸出したことが問題になっており、上田藩も同様の理由で城下町商人を処罰している。

また、安政6年(1859)10月12日に、江戸の生糸問屋が江戸町奉行所に提出した嘆願書(資料4、『桐生地方史』所収資料)によれば、当時、江戸では生糸不足が問題になっており、生糸問屋が横浜に向けて出荷された生糸を「御府内通り越荷物」として取り締まろうとしても、「諸家様御差物之生糸荷物」(藩専売の生糸)には恐れ多くて手出しができないと記されている。

資料4
諸国より横浜へ送り込候生糸荷物は、御府内通り越荷物に御座候間、見当り次第懸合仕度心得に罷在候得共、御免貿易の荷物に付、外売荷物とは差別も可有御座と奉存候、如何取計可然哉、殊に確と見留聞止め候儀には無御座候得共、中には諸家様御差物之生糸荷物も有之様の風聞も承知仕候に付、是迄は差控手差不仕候得共、此程は御府内外渡世の者共内にも、国々より生糸直買仕、横浜江相廻し候者も有之哉の趣、粗承知仕候得ば此姿にて打過候ては往々糸問屋共商法も立兼候様成行可申と組合一同心痛罷居候
 安政六未年十月十二日

以上の資料を読み合わせて考えると、生糸輸出量の制限を目的とする「五品江戸廻送令」の発令に際して、幕府や藩が中居屋や城下町商人を処罰する必要があったことが分かってくる。もっとも、開港直後から中居屋がなぜ藩専売以外の大量の生糸を扱うことができたのかについては今後考察を深める必要があるが、この点についても、上田市生田飯沼地区(信濃国小県郡飯沼村)から発見された資料がヒントを与えてくれる。

本誌105号で紹介したように、飯沼村は中居屋の番頭をつとめた松田玄冲の出身地であったが、この村の人々は嘉永期(1848ー1854)から信州各地の生糸を集荷し、上州の絹織物生産地などに販売していた(井川克彦「横浜開港前における信州丸子地方の生糸取引」『千曲』142号および「横浜開港前における飯沼村吉池家の生糸取引」『横浜貿易史研究』第4号)。中居屋は、こうした地域を出身地とする人物を番頭にすることで、各地の荷主を獲得していった可能性がある。

飯沼地区に残された中居屋重兵衛自筆の書簡
中居屋が飯沼村の名主に宛てたもの
飯沼地区に残された中居屋重兵衛自筆の書簡

また、中居屋は、開港以前から飯沼村の人々とさまざまな交流を繰り広げたことを伝える資料も飯沼地区から発見されており(たとえば、上掲の古文書は、横浜開港以前に、中居屋が飯沼村名主に差し出した手紙で、こうした資料がいくつか見つかっている)、開港後の中居屋の繁栄は、藩専売と結びついたことに加えて、こうした地域の人々と早くから関係を持ったことによって支えられたようである。これらの点については今後、別稿で明らかにしたいと思う。

(西川武臣)

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