横浜開港資料館

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「開港のひろば」第108号
2010(平成22)年4月24日発行

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特別資料コーナー
ジョセフ・ヒコ『海外新聞』

外国人居留地と新聞

 横浜は新聞発祥の地として知られるが、幕末・明治初年を通じ情報の発信基地だった。新聞は、まず外国人居留地に居住する人びとに向けて、『ジャパン・ヘラルド』などの外国語の新聞が発行されるようになった。

外国人居留地では、日本人に向けた日本語の新聞も発行された。現在中華街関帝廟通りに、「日本国新聞発祥之地」という記念碑があるが、その場所でジョセフ・ヒコ(日本名は浜田彦蔵)が『海外新聞』を発行した。当時、幕府内で外国語新聞の翻訳が回覧されていたが、一般の日本人を対象にした新聞としては最初のものだった。

ジョセフ・ヒコと『海外新聞』

ジョセフ・ヒコは「漂流民」で、13歳の時に遠州灘で遭難し、米国船に救助され、アメリカで教育を受けて帰化し、アメリカの市民権を得た初めての日本人だった。彼は、安政6(1859)年、21歳の時、横浜の開港とともにアメリカ領事館の通訳となって帰国した。その後貿易商となり、新聞を発行し始めた。

ヒコの新聞は、『新聞誌』として始まり、『海外新聞』と改題した。新聞に挟み込まれた付箋には、「今般万国の新聞紙を訳し出しぬ。之に附するに横浜新聞と引札と又おもしろき海外の歴史を訳出す。其続きハ猶逐々に出すべし。尤も西洋飛脚船毎月両度ヅ丶持ち来ることなれハ其都度々々に出す。」とある。外国の郵便船(主にイギリス船)がもたらすニュースを翻訳し国別に編集、横浜のニュースや広告、「アメリカ史略」など海外の歴史も掲載し、月2回程度発行した。現在の新聞とは異なり、和紙に木版刷りの冊子型のもので、手書きの時期もあった。

創刊年については、元治元(1864)年と慶応元(1865)年の二つの説がある。ヒコの自伝『ナラティブ』1864年6月28日の項目に「この月、私は木活字刷り(実際は木版)で海外ニュースを要約してのせた日本語新聞『海外新聞』を創刊した。これは、日本語で印刷・出版された最初の新聞であった。それは、この時から私が長崎へ去るまでの、約二年間続けられた」と書かれている。また、編集に携わった岸田吟香は、明治26年に『朝野新聞』の中村鶴城記者のインタビューに答え、「予が新聞紙なる者を刊行したるは実に元治元年にして今より三〇年の前」と述べ、ヒコが外国の新聞から珍しい記事を翻訳し、吟香と本間清雄とが平仮名まじりの日本文に綴ったと語り、これが「我が日本帝国に於ける新聞雑誌の元祖」であったと述べている。しかし、元治元(1864)年に発行された新聞自体はみつかっていない。

ヒコの自伝8月20日の項によれば、多くの日本人がヒコを訪ね、熱心に海外のニュースを求め、『海外新聞』を読みたがっていたが、政府と法律のせいで購読することを恐れており、仕方なく大部分を無料配布したという。定期読者には、荘村省三、中村祐興などがいたが、発行部数は少なかった。

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