横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第104号
2009(平成21)年4月22日発行

表紙画像

展示余話
ネイサン・ブラウンの伝記とともに
−伝記に挟まれた二点の資料−

二つの資料

当館では、展示の準備を開始した時点で本書を所蔵していなかったため、展示関連の基本資料として本書を入手したが、そこには一枚の写真と封筒が挟まれていた。ここでは挟まれていた資料二点について紹介したい。

二点の資料のうちの一点は、N・ブラウンの墓の横に立つ山田千代(英語名エイミー・コーンズ Amy Cornes)の写真(写真2)である。

写真2 ネイサン・ブラウンの墓の横に立つ山田千代 当館蔵
ネイサン・ブラウンの墓の横に立つ山田千代

山田千代は、横浜で貿易を営んだイギリス人実業家フレデリック・コーンズと、日本人女性のあいだに誕生した。生年月日は、三ツ沢墓地にある千代の墓碑によれば慶応3(1867)年5月8日である(『日本キリスト教歴史大事典』では慶応4(1868)年5月8日となっている)。明治20(1887)年にドリーマス・スクール(後の横浜共立学園)を卒業し、英和女学校(後の捜真女学校)の教師となった。わずか20歳で授業のほかに会計の事務を行い、寄宿舎の管理も担当したという。校長のクララ・A・カンヴァースを助け、学校経営と教育に多くの功績を残し、昭和35(1960)年、横浜で死去した。93歳であった(鈴木芳徳氏「コーンズ商会(Cornes & Co.)関係文書について(その四)Amy Cornes(山田千代)の周辺」『商経論叢(神奈川大学経済学会)』39巻1号 2003年)。

写真は、撮影の時期は不明であるが、用紙や現在キャビネ判といわれる大きさに焼かれていることから、戦後の写真であると思われる。山田千代晩年の写真であろう。

写真とともに伝記に挟まれていた封筒(写真3)は、封筒のみで、何も同封されていない。しかし封筒の表面に英文で次のように記されている。「私の父の墓の横に立つのは横浜バプテスト教会の年を取ったPaterである川勝です。彼は父が聖書を仮名、つまり日本人の話言葉に翻訳するのを補助した人物です。翻訳された聖書は未だに日本で一般的に用いられています。また川勝は、バプテストの援助のもとで私の母がマリー・コルビー学校(マリー・L・コルビー・ホーム)を設立する際にも手助けしてくれました。母は、のちに中国の汕頭で宣教師ウィリアム・アッシュモアと結婚し、今父の墓の横に眠っています」。

写真3 川勝について書かれた封筒の表書き 当館蔵
川勝について書かれた封筒の表書き

「私の母」と、N・ブラウンの二人目の妻シャルロッテのことを記していることから、封筒の表に文章を記したのは、シャルロッテが最初の夫とのあいだにもうけ、N・ブラウンと再婚し来日する際に連れてきた二人の娘の一人であろう。内容は、N・ブラウンの聖書翻訳を助け、後にバプテスト宣教師となった川勝鉄弥(1850〜1915)について記されている。封筒には川勝の写真が入れられていたのであろうか。

封筒と写真の関係は不明であるが、N・ブラウンないし山田千代を知る人が受け取り、本に挟んだのかもしれない。入手した図書がもたらしたN・ブラウン関係資料は、思いがけないプレゼントであった。

(石崎康子)

「横浜開港と宣教師−翻訳聖書の誕生」展では、川島第二郎氏より貴重な資料を多数お借りし、展示させていただいた。またご教示下さったブラウン聖書に関するご研究の成果は、展示に反映させていただいた。今回発見された山田千代の写真についても、写真の人物が山田千代であることを教えてくださったのは、川島第二郎氏ご夫妻であった。氏の寛厚と学恩に感謝し、記して謝意を表します。

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