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「開港のひろば」第104号
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特別資料コーナー
ペリーが贈ったと伝えられる望遠鏡
幕末から明治初年にかけて、外国商館ウォルシュ・ホール商会に勤めていた熊谷伊助のご子孫の熊谷和之氏が、望遠鏡を当館に持参された。望遠鏡は、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリー提督が、日米和親条約締結の際に伊助に贈ったと伝えられるもので、代々熊谷家に伝来したものであった。残念ながら、ペリーが望遠鏡を贈ったことについての確かな記録はなく、話の真偽については分からない。
しかし、横浜を代表する大物商人であった伊助の興味深い逸話のひとつであろう。伊助については本誌21号で紹介したことがあるが、伊助は現在の岩手県一関市千厩町出身の商人で、慶応期(1865〜68)に横浜に移住し、以後、ウォルシュ・ホール商会の番頭格として活躍したと伝えられる。
ご子孫の家には、伊助の活動を現在に伝える古記録がいくつか残されているが、明治3(1870)年の記録には、伊助が水戸藩と関係を持ち、同藩が北海道で獲れる海産物を輸出しようとした際に、伊助がその仲介者として活躍したと記されている。
また、伊助は勝海舟とも親交があり、ご子孫の一人である故熊谷守美氏の家には勝が伊助に宛てた手紙が残されている。この手紙は、明治2(1869)年4月20日付のもので、手紙にはアメリカに留学中の勝の長男に留学費用を送金したいと記されている。
送金にあたってはウォルシュ・ホール商会に為替を依頼したようで、金千両を子供に送りたいとある。また、手紙が記された日の勝の日記には「米国為替、松屋伊助へ届方頼む」(『勝海舟全集』)とあり、手紙の内容を裏付けている。
はたして東北の在郷町の商人であった伊助が、なぜ横浜で成功することができたのか、なぜ勝のような大物政治家と親交を結ぶことができたのか、分からない点は多い。しかし、ペリー来航の際に西洋の文物と接したことが、横浜進出のきっかけになったと考えることはあながち間違ったことではないのかもしれない。
なお、望遠鏡は4月22日より「新収資料コーナー」で展示する。
(西川武臣)