横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第104号
2009(平成21)年4月22日発行

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企画展
「港都横浜の誕生」展出品資料の中から
−新発見資料が語る横浜開港−

横浜道建設に関する古文書

幕府は、横浜開港に先立ち横浜の市街地建設に着手し、同時に横浜道や波止場の建設を推し進めた。工事は入札でおこなわれ、工事ごとに最低価格を入れた業者が請け負うことになった。こうして、町づくりが始まり、波止場の工事は現在の埼玉県深谷市の農民笹井万太郎が、奉行所役人の住宅建設は江戸の幕府御用商人蔵田清右衛門が、横浜道の建設は久良岐郡太田村(現在、中区)の勘七が請け負うことになった。

軽部家には、横浜道建設について記した古文書がいくつか伝来しているが、資料3はそのひとつである。資料は安政6(1859)年に、幕末の当主清兵衛が記したもので、横浜道の建設が必ずしも順調にいかなかったことを述べたものである。資料によれば、同年四月に、横浜道の工事を請け負った勘七は、道の途中に架かる新田間橋・平沼橋・石崎橋の工事を平左衛門という人物に下請けに出したが、5月上旬には橋の工事費がなくなったようである。

資料3
資料3

工事がストップしたことに対し、幕府は地域の有力者であった軽部家に工事を進めることを依頼し、これ以後、軽部家は工事費の借り入れに奔走し、木挽きや鍛冶など、職人への日当の支払いに追われることになった。資料には橋の完成が開港予定日の前日にあたる6月1日であったと記されているから、横浜道の建設が突貫工事でおこなわれたことを知ることができる。また、この古文書は今回、初めて公開されるもので、文書の公開によって、横浜道建設の実態が明らかになった。

暮らしの西洋化に関する資料

横浜ではじめてガス灯が点ったのは明治5(1872)年9月であったが、ガス会社を経営した実業家高島嘉右衛門のご子孫の家には、ガス灯建設に関わる古文書(資料4)が残されている。この資料は、明治7(1874)年3月19日に、神奈川県令中島信行が高島に宛てたもので、天皇がガス灯建設の偉業を讃えていることを伝えたものであった。文書は当館が保管しているが、ガス灯だけでなく鉄道建設や近代教育にも大きな足跡を残した高島の事跡の一端を現在に伝える文書である。

資料4
資料4

ガス灯建設に代表されるように、開港後の横浜には西洋の文物が多数移入され、この町は日本の近代化の窓口になったが、展示では横浜での暮らしの西洋化や近代化に関わる資料も多数出品した。たとえば、資料5は、日本で最初に石鹸製造に成功した堤石鹸製造所の石鹸を販売した手塚佐七が発行した広告である。広告には、女性が水シャボンを使って髪を洗う方法が記され、洗髪の後に水か酒で髪をすすぐと良いと記されている。

資料5
資料5

また、資料6は慶応3(1867)年に刊行された「どんたく目録」である。「どんたく」とは休日のことであり、この年の日曜日が何日になるのかが示されている。日の丸の部分には慶応3年が西暦で1867年に当たることが記され、その下には中国の年号も見える。当時の日本は太陰暦を使用し、日曜日が休日になることがなかったが、西洋人との商売上の取引が活発になるのに従い、こうした目録が必要になったと思われる。

資料6
資料6

以上、わずか6点の出品資料を紹介したが、展示にはこのほかにもこれまで知られていなかった資料を多数出品している。また、出品できなかった資料も多数あるが、当館の収蔵資料の大部分は閲覧室で複製か原物で閲覧することができるので、ぜひ閲覧室でさまざまな資料に触れていただきたいと思う。

(西川武臣)

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