横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第100号
2008(平成20)年4月23日発行

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資料よもやま話2
堤石鹸製造所とその資料
―日本最初の石鹸製造をめぐって―

堤石鹸製造所で働いていた職人
(横浜開港資料館保管「堤真和家所蔵文書」)
堤石鹸製造所で働いていた職人

  平成13年(2001)、磯子区の旧家である堤真和家から民間では日本で最初に石鹸製造に成功した堤磯右衛門(堤石鹸製造所)の関係資料が寄託された。これらの資料は堤家10代当主磯右衛門が明治時代に記したもので、資料が寄託されたことによって黎明期の石鹸工業の実態が明らかになりつつある。そこで、ここでは、どのように磯右衛門が日本最初の石鹸製造・販売会社を作ったのかを寄託資料から紹介したい。

  もっとも平成13年に寄託された資料は1000点以上に達し(目録は『横浜開港資料館紀要』第20号に収録)、そのすべてを紹介できるわけではないので、今回は磯右衛門が石鹸製造にはじめて成功し販売を始めた明治6年(1873)から同十年頃までの資料を中心に黎明期の石鹸製造の様子を眺めてみたい。

  石鹸製造所の開業はいつか

  磯右衛門が西洋の石鹸とはじめて出会ったのは慶応2年(1866)のことであった。当時、彼は横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設に携わっており、製鉄所の建設を指導するフランス人が石鹸を使うのを見て、その効用を知ったと伝えられる(この点については本誌54号に掲載した)。その後、彼はみずから石鹸を作ることを計画し、明治6年に石鹸製造に乗り出すことになった。

  磯右衛門の日記にはじめて石鹸という言葉が登場するのは明治6年(1873)4月13日のことで、この日、彼は原田という人物と元町3丁目に向かい、「舶来石鹸」を購入している。購入目的は分からないが価格や色などが記されているから、輸入品の品質を確認したかったのかもしれない。

明治6年(1873)に記された堤磯右衛門の日記(横浜開港資料館保管「堤真和家所蔵文書」)
明治6年(1873)に記された堤磯右衛門の日記

  その後、4月20日からは「サボン経験」(シャボン実験)という言葉が散見するようになり、この頃から製造実験を開始したようである。また、5月15日からは製造に使う釜や燃料の材木などの購入が始まっている。さらに、5月下旬からは植物の灰や牛の脂身などの購入も始まり、5月22日の記述には、灰四俵と牛蝋1本を買ったとある。

  ところで、彼は明治18年(1885)に実験開始当時のことを記した回想録を著しているが(『横浜開港資料館紀要』第15号参照)、「詳しい製法を教えてくれる人もなく、製法を記した本も入手できなかった」と述べているから実験は必ずしも順調ではなかったようである。

  しかし、6月下旬には良質なものではないものの石鹸が完成したようで、6月27日の記述に、石鹸製造開業についての願書を神奈川県に提出したとある。したがって、この日をもって堤石鹸製造所が開業したと言ってよいだろう。また、「送状留」と記された帳簿には同年7月25日に石鹸を初出荷したと記され、同時期から販売に着手したようである。ちなみに、願書に記された製造所の場所は「第五区吉田南三ツ目第一四六番」(現在の南区万世町)で、彼は明治23年(1890)に営業を停止するまで、この地で石鹸を作り続けることになった。

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