横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第100号
2008(平成20)年4月23日発行

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資料よもやま話1
震災復興期の保土ヶ谷町

  大正12(1923)年9月1日の関東大震災で、保土ヶ谷町は死者627名、負傷者387名、行方不明者16名を出し、倒壊家屋は全壊1429棟・半壊1979棟にのぼった。被災規模が他町村に比べて軽微であったため、多くの罹災者の避難地となった。

  本稿では、保土ヶ谷町帷子(かたびら)の旧家の出身で、当時神奈川県産業技師として県下の農村復興に尽力した磯貝(いそがい)久(ひさし)の日記(磯貝(いそがい)力(つとむ)氏蔵)を通して、震災復興期の保土ヶ谷の様子を垣間見ることにしたい。

  (1)被災から日常生活へ

  震災当日、磯貝は出勤して不在だったが、震災直後に帰宅、「午前十一時五十八分頃激震鳴動地物倒壊、老父負傷、野方(のかた)病院ノ外庭ニ臥シ妻子氏神ノ東ノ埋地ニ伏シ戦競夜ヲ明カス」と、不安な一夜を過ごした。翌日まで余震が続き、3日、風呂場の跡に仮小屋を建てて生活することになった。しかし当時保土ヶ谷には、多い時で約3万人の避難民が押しかけていたため、広さ8畳の仮小屋に夜露を凌ぐ人々が17人も集まる始末であった。

  震災の1週間後からインフラの復旧が始まった。9日に「工兵街路ヲ開通シテ呉レル」、10日に新聞で「京浜以外ハ大ナル被害ナキコトヲ知」り、県庁に出勤、12日に電灯点火、13日に水道通水、17日に「郵便託送箱」を懸けた。

復旧作業中の磯貝家(磯貝力氏蔵アルバム)
復旧作業中の磯貝家

  保土ヶ谷では倒壊家屋の片付けや救護事務等に保土ヶ谷町青年団がいち早く従事したが、磯貝家には、東京農学校以来の親友・角田(つのだ)恵重(けいじゅう)が、郷里の群馬県から4人を引き連れて復旧作業の加勢に来てくれた。彼等は9月14日に昼夜兼行で自動車で駆けつけ、16日からバラック建築に取りかかり、10月4日に完成、一家全員が移ることになった。

  10月11日に42日目にして入浴、翌日、「台所ニテ皆ト夕飯ヲ共ニス、今マテハ外ニテ立食セリ」と、この頃から日常生活を取り戻しつつある様子が窺える。

  11月には仮倉の修築を終え、12月に家の周囲の塀と台所が完成、年内には家の修築をすべて終えて無事に年越しを迎えることができた。

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