横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第100号
2008(平成20)年4月23日発行

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資料よもやま話1
震災復興期の保土ヶ谷町

  (2)建築ラッシュに湧く町

  震災から約半年が経過すると、保土ヶ谷の町では、復興の槌音(つちおと)が響きわたるようになった。保土ヶ谷の名望家・岡野(おかの)欣之助(きんのすけ)は、町の有力者を集めた振興会を組織し、低廉な地価で宅地を提供し、住民招致を図ろうとしていた(『横浜貿易新報』大正13年3月15日・23日)。震災前に比べると、保土ヶ谷における新築建造物は激増(大正12年・264棟→13年・585棟→14年・758棟)、人口も3万人に迫る勢いであった(神奈川県立公文書館蔵「県庁各課文書」、「昭和二年横浜市境界変更に関する書類」)。中でも帷子地区は町の全人口・戸数の過半が居住する人口稠密(ちゅうみつ)地であった。

  こうしたなか、磯貝家では居宅の新築移転に着手することとなった。大正13年10月24日に磯貝を訪れた県庁の草柳正治は、「昨夕知事ト帰途自動車ニテ保土ヶ谷ノ町ヲ通過シタルガ、人家櫛比(しっぴ)ニ驚ク、君ノ宅ナドハ山ノ方ヘ移スヘキダ」と伝えた。さらに彼は翌年8月4日に再び来訪し、「君ノ宅地ハ商業地ダ、住宅ハ山ノ方ヘ移ルガイイ」と、丘陵部への移転を勧めた。10月1日に栗林(現在の宮田町)を下見した磯貝は、「富士大山(おおやま)ヲ遠望スルノ景ナド洵(まこと)ニ佳良(かりょう)」と一目で気に入り、また草柳も、「アスコ以外ニハイイ処ハナイ、建テルナラハアスコダナ」(10月5日)と絶賛、県庁の成富技師に設計を依頼した。

  その年の暮れに地均しを開始、翌15年1月18日に地鎮祭、3月25日に上棟式、と、丘陵部での難工事にも関わらず急ピッチで工事が進められた。この間、新居の完成を心待ちにしていた父・林蔵(りんぞう)を亡くす不幸にも見舞われた。8月に母屋が完成、同月15日に家族揃って新居へと移った。

  (3)横浜市へ編入・橘樹神社再建

  このような宅地化が続く一方、保土ヶ谷町では学校等施設の応急・復旧費として神奈川県より約38万円を借り入れていた。また急増する人口は、道路・水道・住宅等のインフラに対する需要の増加を招いた。岡野(おかの)欣之助(きんのすけ)ら町の有力者たちは、いち早く横浜市との合併による財政基盤の強化と社会資本の整備という道を選択、周辺町村にも横浜市との合併を慫慂(しょうよう)した。

  昭和2(1927)年4月横浜市と保土ヶ谷町を含む9町村の合併が成立、その年の10月には保土ヶ谷区が成立した。日記には、「横浜市ニ編入セラレ帷子町(かたびらまち)トナル」(4月1日)、「保土ヶ谷区トナル、宮田町トナル」(10月1日)とだけ書かれている。

  現在の天王町(てんのうちょう)に鎮座する橘樹(たちばな)神社に、震災復興の記念碑が屹立(きつりつ)している。震災前の磯貝家は橘樹(たちばな)神社の正面に位置しており、磯貝(いそがい)林蔵(りんぞう)・久(ひさし)親子は、震災で被災した本殿の再建を願っていた。橘樹(たちばな)神社の再建は、この地区が名実ともに震災から復興を遂げたことの証となるからである。昭和3年3月6日磯貝(いそがい)久(ひさし)は、父親の名義で再建費550円を寄付、本殿は翌4年9月14日に竣功した。磯貝(いそがい)久(ひさし)は再建を見届けた10日後、45歳の若さで息を引き取った。

  それから九年後の昭和13年、久(ひさし)の息子・磯貝(いそがい)正(せい)もまた病魔と闘いながら、浩瀚(こうかん)な『保土ヶ谷区郷土史』上下巻を執筆、横浜の郷土史に金字塔を打ち立てることとなる。

(松本洋幸)

  本稿執筆に際して、磯貝(いそがい)力(つとむ)氏・磯貝(いそがい)安彦(やすひこ)氏にご高配を賜りました。末尾ながらお礼申し上げます。

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