横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第100号
2008(平成20)年4月23日発行

表紙画像

展示余話
中華街斜め考

  どっちが斜めか?

  平成20年1月30日から4月20日まで、企画展示「ハマの謎とき―地図でさぐる横浜150年」を開催した。展示が開いて最初の土曜日となった2月2日、龍谷大学の濱下武志(はました たけし)教授のご案内で、中国広東省より中山大学の陳春声(ちん しゅんせい)・劉志偉(りゅう しい)両教授が来館され、「ハマの謎とき」展をご覧になった。

  「中華街はなぜ斜めか?」のところでお二人の足がとまった。地図をしばし眺めた後、「中華街は斜めではない。斜めなのは周りのほうだ」とおっしゃるのである。

  さすがは中華思想の国と思いきや、お二人はしっかりと展示室入り口の現在の地図に注目していた。

  地図で方位を確認すると、旧横浜新田にあたる中華街一帯の台形は、東西南北の位置が正確である。中華街をふくむ旧開港場全体が四五度ずれており、斜めの中の斜めなので、中華街一帯は逆に方位が正確になっている。

  図は明治初年の山下居留地の地図だ。東西南北の方位を見ると、中華街の台形は方位がぴたりと合う。

  現在、横浜中華街には東西南北に牌楼(ぱいろう)が建つ。南門(朱雀門)は図の地図では前田橋のたもと、東門(青龍門)は地図の80番地あたり、北門(玄武門)は地図の194番地あたり、西門(白虎門)は222番地あたりで、中華街一帯は東西南北の方位が正確であることを示している。確かに方位の観点からみると、斜めなのは周りであって、中華街ではないということになる。

図 明治初期の山下居留地地図 増田万吉作成
横浜開港資料館所蔵
図 明治初期の山下居留地 地図 増田万吉作成

  なぜ新田の形が残ったのか?

  しかしどうしてこの旧横浜新田の台形の形が残ったのか。これについては、前号で新田の水路を埋め立てて街路にしたからだと推測した。また旧横浜新田の場所はまわりより土地が低いので、その高低差が造成に影響したと考えた。

  今回は、さらにもう一つの理由を推測してみたい。そのヒントは「横浜新田」の名前そのものにある。横浜の代表的な埋立地である「吉田新田」と「太田屋新田」は、ともにその土地の埋め立てを行った、吉田勘兵衛と太田敬明の名前に由来する。一方、「横浜新田」は特定の個人の名前を冠していない。この新田は一個人ではなく横浜村の複数の村民が共同で埋め立てを行った村請新田なのである。

  開港後、旧横浜村の土地は幕府に召し上げられ、農民には立ち退き一時金(作徳料)と年々の保証金が与えられた。その額は土地の広さに応じて決められた。一方、旧横浜新田は複数の農民が権利を有する田畑で成り立っている。個々人の持分の面積によって保証金が算定されるので、田畑の形を崩してしまうと、持分の算定に支障をきたすことになる。そのため元々の田畑の形を残したのではないだろうか。

  また、まわりの旧太田屋新田や旧横浜村を貫通して道路を整備すれば、道は海岸線に平行になり、整然とした街並みとなるが、もともとの土地の区分が崩れ、土地の権利関係やそれにともなう保証金の算定が困難になってしまう。やはり、旧横浜新田の土地はその形を残しておくことが必要だったと考えられる。

  中華街形成のきっかけか?

  さて、旧横浜新田の土地は文久2年(1862)中には造成されて、貸し出された。そしてこの年のうちに、中国人が二つの地所を借りている。135番地の同済医院と186番地の順和桟だ(『横浜開港五十年史』172頁)。ただし、この段階では清国と日本は条約を結んでおらず、正式には居留地の地所を借用できないので、条約国民の名義を借りたと思われる。またこの文久2年には関帝廟の前身の祠が現在地に開かれたという(この点についての詳細は拙稿「横浜中華会館・関帝廟・同善堂について」『横浜開港資料館紀要』第26号、2008年3月を参照されたい)。

  旧横浜新田の造成完了とほぼ同時に、中国人がその場所に進出している。これには無論、他の居留地の場所が手狭になったためという側面もあるが、より積極的にこの場所を好んで地所を借りたとも考えられる。それは東西南北の方位の正しさであろう。中国人は土地を選ぶ際には風水を重んじる。ましてや異国の地での第一歩には、なるべく好ましい場所を選ぶだろう。

  中華街一帯の土地は、風水思想にもとづいて中国人が造成したというのは間違いである。土地の造成と街路の整備は日本人の手になる。しかし、この土地が風水の観点から優れていたので、中国人が好んで集まり住んだと考えることはできる。

  (伊藤泉美)

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