横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第100号
2008(平成20)年4月23日発行

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企画展
「開港150プレリュード(6)ハリスと横浜」
遣米使節をめぐる英・米・仏の思惑

  1858(安政5)年に通商条約を締結した後も、ハリスは駐日総領事として引き続き江戸に滞在し、翌59年1月、公使に昇任した。

  つづいて1859年7月の横浜開港直前の6月26日、イギリスの初代駐日総領事としてオールコック(1809〜1897)が、また9月にはフランスから総領事ド・ベルクール(1817〜1881)が江戸に着任した。

  すでにロシア領事ゴシケヴィッチ(1814〜1875)は1858年10月、江戸ではなく箱館に赴任していた。オランダの初代総領事デ・ウィットも、長く本拠地としてきた長崎で外交を開始した。

  開港初期、江戸に常駐して外交活動を開始したのはハリスとオールコック、ド・ベルクールの3人であった。通商条約締結の立役者であるハリスを長老格とし、協力して対日外交にあたったが、確執もうまれ、とくに上海や広東領事の経験をもつオールコックはハリスにかわって交渉の主導権を取るようになる。

  その確執の一例として、1860(万延元)年の遣米使節派遣をめぐる3人の外交官や本国のそれぞれの思惑と対応を、各国外交文書を用いて、つぎに紹介する。

  万延元年の遣米使節

  幕府は、日米修好通商条約の批准書をワシントンで交換するため、また直接、西洋文明に触れる機会をえようと、1860(万延元)年2月9日、正使新見豊前守(せいし しんみ ぶぜんのかみ)と副使村垣淡路守(ふくし むらがき あわじのかみ)、立合小栗豊後守(たちあい おぐり ぶんごのかみ)以下、総勢77名をアメリカに派遣した。渡航にはアメリカ軍艦ポーハタンが使われた。随行艦として提督木村摂津守(ていとく きむら せっつのかみ)と艦長勝麟太郎(海舟)(かんちょう かつ りんたろう かいしゅう)が乗った咸臨丸も太平洋をわたった。咸臨丸の乗船者には、提督の従者として乗り込んだ若き福沢諭吉らがいた。

  使節一行は、ワシントンで批准書交換を終えた後、フィラデルフィアやニューヨークを見学し、喜望峰回りでバタビア(現ジャカルタ)や香港に立ち寄り、1860年9月に帰国した。

  ハリス、申し出を歓迎

  遣米使節の派遣は、まだ通商条約案を検討中、幕府から申し出があったものである。ハリスがのこした日記をもとに編まれた『ハリス日本滞在記』下(坂田精一訳、岩波文庫)、1858年2月6日の条には、つぎのように書きとめられている。

  「第十六条[実際は十四条]…。この条項は批准交換を規定するものである。彼らは、もし貴下が希望するならば、この目的のために日本の蒸気船に使節をのせて、カリフォルニアを経由してワシントンに派遣することにしてはと提議した!私は、私にとって、これ以上の喜びはないと述べ、合衆国は日本がこれまで条約を結んだ最初の大国であるから、最初の日本使節を合衆国に送ることは、私の大いに喜びとするところであると彼らに告げた。」

  遣米使節派遣を翌日に控えた1860年2月8日、ハリスは同様の喜びを本省に伝えた(Diplomatic Despatches: Japan, Vol.3, No.6)。

  「明日、ワシントンに赴く日本使節がポーハタンで出航することをお伝えできること、…私と日本の現閣老との関係が最も良好であること、また1857年にこの江戸を初めて訪れた際のことをまざまざと思い出すことをお伝えできることは、私の喜びとするところである。」

  ハリスにとって、駐日外交団の長老としての名誉を顕す絶好の機会であった。

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