横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第100号

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第100号
2008(平成20)年4月23日発行

表紙画像

資料よもやま話2
堤石鹸製造所とその資料
―日本最初の石鹸製造をめぐって―

  最初の石鹸の原料と製法は

  明治18年に記された回想録によれば、製造開始当初、彼は石鹸原料の入手に苦労したようである。特に原料のひとつである苛性ソーダが輸入されていなかったために、それに代わるものとして大量に煙草の茎を購入している。煙草の茎の購入先は東海道藤沢宿や千葉県の木更津方面で、日記には購入先の商人の名前が記されている。

  ちなみに、煙草の茎は焼いて灰にされ、これを煮詰めてポッタアス(炭酸カリウム)を作成し、これに油を混入して軟石鹸を作ったようである。さらに、軟石鹸に食塩を混ぜて石鹸を固めたとあり、当初の原料は牛の脂身・煙草の茎・食塩だったことになる。しかし、明治八年頃になるとさまざまな輸入原料を使用するようになり、この頃の記録には東京や横浜の商人から「椰子油・アザラシ油・落花生油・牛油・ソーダ・香料」などを購入したとある。

  それにともない煙草の茎の購入はなくなり、製造方法もしだいに変わっていった。当時の記録には、植物油や動物性の油に苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)やポッタアス(炭酸カリウム)を混ぜて加熱し、出来上がった石鹸水溶液に食塩を加えグリセニンと石鹸に分離したとある。さらに、蜂蜜やバラの油を混ぜたとあり、この頃から匂いの良い石鹸が作られるようになったと思われる。

  借用金・売上高・販売先

  実験開始後、磯右衛門はしだいに良質の石鹸を製造・販売するようになったが、製造を開始した明治6年から翌年にかけては販路も狭く、営業資金の調達に苦しんだようである。残された資料の中には彼が借金を繰り返したことを伝えるものも含まれ、磯右衛門は明治6年1月から翌年12月までの間に、判明するだけでも10人以上から2000円以上もの金を借り入れている。

  回想録には当時は使用人の給金も払えず、借金の利子の支払いにも困窮したとある。ただし、堤石鹸の取次所をしていた東京上槙町の松本屋(井上幸兵衛)が越後地方に石鹸を出荷し、この石鹸が売れたことによって若干の収益があったと記されている。経営が安定するのは石鹸の品質が向上した明治8年からで、売上高を書き上げた台帳には、明治8年の売上高が4800円を超えたとある。この額は開業当初の明治6年の売上高の約8倍で、その後、明治11年(1878)には年間売上高が1万円を超えた。

  また、明治8年の販売先については「遮朋贈簿」と題された帳簿があり、松本屋(井上幸兵衛)以外に東京薬研堀町の市川豊助、同馬喰町の岩城清兵衛、同橘町の松井屋理助らが大量の石鹸を購入している。さらに、明治十年に磯右衛門が神奈川県に提出した願書には、京・大阪・神戸・函館・新潟・長崎・仙台・青森・和歌山・愛知などへも出荷先が広がったほか、海軍や陸軍へも石鹸を納入したと記されている。

堤石鹸商標(横浜開港資料館保管「堤真和家所蔵文書」)
堤石鹸商標

  この資料には価格も記され「獅子形」と呼ばれる石鹸は12個で30銭、「旭形」は42個で55銭、「異人形」は42個で45銭であった。

  伝習生の受け入れ

  平成13年に寄託された資料の中に「伝習申入人心得」と題されたものがある。資料は明治10年代始め頃に作られた伝習生(石鹸製造技術を習得するためにやってきた人)についての規則で、当時の堤石鹸製造所では多くの伝習生を受け入れていたようである。ちなみに、石鹸工業は明治時代中期以降、日本各地に広がっていくが、堤石鹸は技術の普及に大きな役割を果たしたと思われる。

  「伝習申入人心得」は全部で6カ条から成り、技術を完全にマスターする前に勝手に石鹸を作り始めることを禁止すること、伝習は毎日午前8時から午後5時までとすること、伝習完了後に他所で石鹸製造を始めた際は売上高の2パーセントを堤に納入することなどが定められた。

  また、前書きの部分には堤石鹸の品質が「各国の製に及ばざる」と外国製よりも劣り、今後、品質を上げることによって輸入を減らし輸出を拡大できると記されている。伝習生受け入れの目的は、石鹸工業を国内に普及することによって「国益」を拡大することであり、国内でのより良い石鹸の増産が磯右衛門の願いだったようだ。

  (西川武臣)

このページのトップへ戻る▲