HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第99号
|
展示余話
『実業之横浜』社主石渡道助のこと
はじめに
企画展示を担当して良かったと思うのは、多くの方にご覧いただくことはもちろんであるが、他には展示の主人公の関係者にお目にかかり、新たな資料を確認することができた時である。
2007年10月31日から2008年1月27日まで、2007年度第3回企画展示「100年前のビジネス雑誌『実業之横浜』―変貌する都市と経済」を開催し、雑誌『実業之横浜』をとおして商業都市から工業都市へと移り変わるおよそ100年前の横浜の様子を紹介した。
『実業之横浜』は、明治37(1904)年に創刊し、大正8(1919)年に『大横浜』、昭和15(1940)年に『工業之横浜』と改題しながら続いた、横浜を代表する雑誌である。
しかしながら、発行所の実業之横浜社、社主の石渡道助については、ほとんど資料が無く、経歴は不明であった。肖像も、展示開催時までは、名前のわかる八名の社員のうち、雑誌に掲載された永井寅太郎(嘯月しょうげつ)の写真があるのみだった。
ところが、2007年11月22日付『東京新聞』に展示の紹介記事が掲載されると、それを見た石渡道助のご子孫が来館され、ご親類に連絡することもでき、道助について少し明らかにすることができた。
石渡道助と家族
石渡道助は、石渡善兵衛、とよ夫妻の次男として、明治9(1876)年5月3日、千葉県市原郡椎津村(現在、千葉県市川市椎津)に生まれた。ご子孫によれば、道助は17歳で東京に出て英語を学び、その後横浜に来て『実業之横浜』を創刊したという。道助が29歳の時だった。
明治40(1907)年8月、道助は千葉県山武郡東金町(現在、千葉県東金市)出身の斎藤みつと結婚し、四男四女に恵まれた。
長男経夫は、東京青砥の修徳学園の校長を長く勤めた人物である。
次男日出夫は作曲家である。神奈川県立横浜翠嵐高等学校、県立鎌倉高等学校、横浜市立栗田谷中学校など県内にある学校の校歌の作曲等を行っている。
四女の長谷川由利恵は、フェリス女学院の教員で音楽を教えていた。
道助の妻みつは、幼稚園の教員でオルガンを弾いたというので、子供たちは小さい頃から音楽に親しんでいたのかも知れない。