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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第99号
2008(平成20)年1月30日発行

表紙画像
企画展
ハマの謎とき−地図でさぐる横浜150年
展示余話
『実業之横浜』社主石渡道助のこと
新収資料紹介
「ファー・イースト」1巻
新収資料コーナー(7)
ビッドルの名前入り軍扇の発見
資料館だより

企画展
二つの謎をさぐる
−開港場建設と居留地整備に関わるエピソード−


  今回の展示でとりあげる9つの謎の中から、二つについて考えてみたい。

中華街はなぜ斜めか?

図1 現状地図
(1)南門シルクロード (2)開港道 (3)本町通り

現状地図

  「中華街はどうして斜めなんですか」という質問をよく受ける。

  たしかに現在の山下町の地図を見ると、山下公園前の海岸通りや本町通りなどは海岸線にそって平行に走っているが、台形をした中華街一帯は本町通りに対して斜めである。

○横浜新田

図2 横浜村並近傍之図(部分) 横浜市中央図書館所蔵
横浜村並近傍之図(部分)

  まずは図2「横浜村并近傍之図」(よこはまむら ならびに きんぼうのず)を見てみよう。これは嘉永4年(1851)当時の横浜一帯の絵図に、開港後の変化を明治初年に書き加えたものである。

  中央やや左手の半円形のところに「横浜新田」と記されている。またその上に点線がひかれ、「元町通」と「万延元年掘割長五百八十間幅十間」(まんえんがんねん ほりわり ながさ ごひゃくはちじゅっつけん はばじゅっけん)と注記されている。この点線が現在の元町と中華街を隔てている堀川であり、横浜新田が中華街の場所にあたる。

  横浜新田は文久2年(1862)中には埋め立てられ、外国人居留地に造成されていく。

図3 御開港横浜正景〔芳員〕 元治元年(1864)頃 当館蔵
御開港横浜正景〔芳員〕

  図3「御開港横浜正景」(ごかいこう よこはま せいけい)は元治元年(1864)頃の絵図で、すでに左端に堀川が通っている。堀川に架かった3つの橋のうち、下から二番目と三番目に接する開港場側の一帯が旧横浜新田である。ここで注目すべきは、旧横浜新田の北側と東側、つまり、旧横浜新田の下部に拡がる居留地との間に水路が描かれている点だ。この水路は太田屋新田と旧横浜新田を貫き堀川に抜けていたと考えられる。

  横浜新田東端の水路は、現在の南門シルクロード、北端の水路は現在の開港道にあたる。図4の地図ではどちらも「HONMURA DORI」と記されている通りである。

  また、開港期の貞秀の浮世絵をみると、この水路とそれに沿う土手が描かれているが、水路と土手には高低差がある。水路側、つまり横浜新田側が低くなっている。

○水路の名残か?

  2001年、現開港道沿いの山下町91番地(旧居留地91番地)で、マンション建設工事が行われ、その地下から居留地時代の遺構が発見された。この工事以前は、開港道と91番地の敷地には高低差があり、91番地側が高くなっていた。また掘削調査によって、91番地の地下部分には茶褐色砂礫層および明褐色砂礫層が認められ、この場所がかつて砂州であったことがわかった。したがって、開港道が旧横浜新田と砂州との境だと推測される。

  横浜村一帯は山手の丘陵から伸びる砂州と、入江を埋め立てた横浜新田・太田屋新田から成り立っていた。現南門シルクロードと開港道は、横浜村の砂州と埋め立てによる新田との境であるため、土地の高低差などが影響し、幕末に居留地に造成する際、旧横浜新田の水路やあぜ道の形が残ったままで街路が造られたのだろう。その結果、現在の中華街一帯は、山下町の中で台形の斜めになったと考えられる。中華街の斜めのわけは、開港場の成り立ちそのものと深くかかわる問題といえる。

  なお、中華街は中国人が風水に基づいて造ったから斜めになったとの説も一部流布しているが、これはあたらない。旧横浜新田の土地の造成、街路の整備を行ったのは幕府側である。


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