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展示余話
有吉忠一(ありよし ちゅういち)の和歌
中央政界に身を置いて
有吉は、昭和5年(1930年)4月、貴族院議員に勅撰された。初登院の日(同年5月)に詠んだ歌である。
君を国をまめやかに思ふ人はもたじ
あらぬ人のみうたてさわげり
有吉は同和会という会派に所属していた。当時、政友会と民政党という二大政党が交互に政権を担当していたが、彼は、両党の激しい対立を批判的に見ていた。
此国のゆく末はしも憂はるゝ
党のあらそひかく増し行けば
有吉は二大政党のいずれにも与することはなかったが、民政党の領袖を好感を持って迎えた和歌が散見される。
君迎ふる此人なみよ国のため
つくしのいさをたゝへんとこそ
(ロンドン海軍軍縮会議から帰朝した若槻礼次郎(わかつき れいじろう)を迎えて)
君を惜しむ心は一つかぎりなく
人なみはよす御霊のまへに
(浜口雄幸(はまぐち おさち)の死去に際して)
一方の政友会では、田中義一(たなか ぎいち)内閣の内相として有吉市長を援けた望月圭介(もちづき けいすけ)のみ、「誠を以て国に奉する志ある人」と例外的に高く評価している。
黒雲のおほへる闇の空にして
たゞ一つ見し星のかゞやき
家族に贈った歌
このほか家族へも愛情溢れる歌を残している。幼少時代を過ごした京都・嵯峨の家を母と訪ねた時の歌。
嵯峨に来ればありし昔の忍ばれて
父すみし家をまわりてぞ見る
母と共に住みにし嵯峨の夏の夜を
かたらひ居れば蛍とび行く
母・歌子の死を悼んで詠んだ歌(昭和7年(1932年)4月)。
父のまへにいでましことゝ思ふより
ほかにすべなき心のいたみ
もろともに待ちにし桜花はさけど
母のいまさぬ部屋のさみしさ
弟の明(あきら)は外交官で、大正15年(1926年)から昭和7年(1932年)までブラジル大使をつとめ、昭和7年(1932年)には満州事変後に悪化した日中関係の正常化を図るべく中国公使(後に大使)として赴任した。その出発の日、有吉は次のように弟を送り出した。
君によりむつびてしかも亜細亜には
ただ二つなる国と国との
ひむがしの海を乱ると西の風
吹きすさむらし心して行け