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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第98号
2007(平成19)年10月31日発行

表紙画像
企画展
100年前のビジネス雑誌『実業之横浜』−変貌する都市と経済
展示余話
有吉忠一の和歌
資料よもやま話1
「たまくすプロジェクト」始動
資料よもやま話2
イギリス駐屯軍と居留地社会
新収資料コーナー(6)
武州橘樹郡市場村「御用留」
資料館だより

企画展
実業雑誌と『実業之横浜』


  明治20年代には、農業、蚕糸業をはじめとする各地の産業や経済、商業などの情報を扱った「実業」と名のつく雑誌が発行された。しかし、明治30年(1897年)6月に大日本実業学会から『実業之日本』が発行され、人気を博すようになると、さらに多くの実業雑誌が発行されるようになる。

  実業に従事する人々に向けたそれらの雑誌は、民間の出版社が発行し、それまでの産業や経済、商業などの情報だけでなく、政治、近代工業、財政金融、社会問題、文芸など広範な分野を扱い、資本主義の発達とともに読者を得た、いわば、100年前のビジネス雑誌であり、官僚や財界人など一部のエリート向けの雑誌から、一般庶民の読物へと広がったのである。

  この時期の実業雑誌で、現在所在が明らかなものは、80誌を超える。北海道から九州まで、また、韓国などの外地で発行された雑誌も含まれる。東京で発行された雑誌には、横浜の読者を考慮してか、横浜に関係する人物や、貿易の情報などが散見される。地方で発行されたものは、その地域独自の情報が掲載され、記事によっては横浜とのつながりを知ることができる。

  横浜でも明治37年(1904年)10月に、石渡道助が『実業之横浜』を創刊した。「対外貿易の発展」、「商工業の振作」、「青年に対する社会教育者」という三大綱領をかかげている。内容は、社説、論説、各種統計、社会などからなり、家庭、文芸欄も設けられていた。

  1巻10号(明治38年5月)によれば定価は1部10銭である。広告料は特等、普通に分かれ、1頁がそれぞれ20円、15円であった。3巻1号(明治39年8月)には、特等、一等、二等に分かれ、1頁がそれぞれ50円、35円、25円となり、その後も値上げしている。明治42年の『神奈川県統計書』によれば、発行部数は月2000部だった。5巻までは表紙に会社や団体の写真入りの広告が掲載されており、雑誌の販売よりは広告料収入のほうが多かったのではないだろうか。

  実業之横浜社の社員はというと、明治41年1月発行の5巻1号に、氏名が入った新年の挨拶文が載っており、社主石渡道助(笠山)以下、全員で8名はいたようである。文芸欄を担当した神戸支局主任永井寅太郎(嘯月)と堀田金四郎(風花か)、主に商事実務記事を担当した高崎商業学校長松村明敏(四効)や新潟県商業学校教諭宮島賢治郎(楽天)等がいた。宮島は翌年渡米し、アメリカに関する記事を掲載するようになる。

  『実業之横浜』4巻には各地の新聞に掲載された同誌に対する批評を集めた「世評一斑」が掲載されている。4巻7号(明治40年8月)の『沖縄新聞』は、「横浜は帝国の一門戸也。商工業の盛なる、帝国屈指の大都会也。雑誌『実業之横浜』は即ち横浜に於ける実業界の趨勢の一班を示し将来の方針を予告する。故に一般商業者は、東北なると西南なるとを問はず之を読まば多少の益あるを信ず。蓋し横浜は或る意味に於ては我国を代表するものと云ひ得べければ也」と評している。概ね横浜実業界の機関誌的存在であり、小説そのほかの文芸趣味もあり、趣味と実益を兼ねた雑誌との評価である。また、体裁が『実業之日本』に近似しており、同誌を小さくしたものという批評もある。


実業之横浜社社員
『実業之横浜』5巻1号 明治41年(1908年)1月 横浜市中央図書館蔵

実業之横浜社社員


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