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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第98号
2007(平成19)年10月31日発行

表紙画像
企画展
100年前のビジネス雑誌『実業之横浜』−変貌する都市と経済
企画展
実業雑誌と『実業之横浜』
展示余話
有吉忠一の和歌
資料よもやま話1
「たまくすプロジェクト」始動
資料よもやま話2
イギリス駐屯軍と居留地社会
資料館だより

新収資料コーナー(6)
武州橘樹郡市場村「御用留」


(右)最も古い文政13年と、(左)最も新しい明治9年の「御用留」

最も古い文政13年と最も新しい明治9年の「御用留」

  「御用留(ごようどめ)」は、一般に江戸時代に幕府や領主から支配下の村々にあてた「達(たっし)」などを、村役人が書き留めた帳面をいう。なかには村方から領主に宛てた「願(ねがい)」「届(とどけ)」なども記載されている場合もあり、情報量において村方の事情を知るうえでの重要な古文書である。ここで紹介するのは、武蔵国橘樹郡市場村(現鶴見区)添田家に残る「御用留」である。

  添田家文書の「御用留」は、これまで、ペリー来航期の嘉永6〜7年(1853〜54年)分が公開されていたが、新たに文政13年(1830年)から明治9年(1876年)にいたる63冊が加わることになった。この「御用留」(明治6年以降は「御布達書留」)は、添田家の当主である知治・知通・知義の三代にわたって書き継がれたもので、当館閲覧室でプリントによって閲覧できる(請求記号:Ca5-01.3-107〜154)。

  江戸時代、幕府や領主が発する達・禁令は、回状の形態をとって村から次の村へとわたされていったため、村役人は備忘のためにも「御用留」に記すことが必要であった。しかし、神奈川県を例にすれば、明治5年(1872年)半ばころから布達が印刷・配布されるようになり、「御用留」を記録する公的な意味が失われてゆく。添田家の「御用留」が明治9年で終わっているのにはそのような時代背景がある。

  ペリー横浜滞在時に条約交渉の応接所に農民の身分で出向き、川崎宿寄場組合大総代として幕末の開港場横浜を含む治安体制の維持や農兵隊組織などのめざましいはたらきをした、添田知通が書き残した時期のものはまことに興味深いものがある。しかし、知通が名主役であった時代でも、知通自身が多忙であったからか、次代の知義が記録している部分がある。また逆に、神奈川県に出仕して市場村を不在にしていたはずの知通が、戸長である知義の筆の間に記録している例もある。

  添田家の「御用留」は、横浜開港前後の、安政5〜6年(1858〜59年)が欠けているが、東海道沿いの村の幕末・維新の状況を知ることが出来る好個の古文書であり、多くの方々の利用に供されることを願っている。

(平野正裕)


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