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企画展
100年前のビジネス雑誌『実業之横浜』
−変貌する都市と経済
『実業之横浜』当館蔵
20世紀の到来は、横浜にとって経済新時代の幕開けでした。明治32年(1899年)の条約改正によって、およそ40年間続いた外国人居留地が撤廃されます。さらに、日露戦争を経て、日本は列強の一員となってゆきました。経済が世界的規模に発展し、工業化が進展するなかで、都市としての横浜はさまざまな転換をむかえます。
横浜では、新たな段階で都市基盤整備がなされた時代でした。国内最初の海陸連絡施設である新港埠頭の建設、水道設備・市営ガス事業などの拡張をはじめとする公共事業、民間資本による海面埋め立てと工業地経営などがすすめられました。
また、貿易の拡大は、日本人商人の貿易業への進出をうながします。そして、従来の生糸商も事業の多角化をすすめました。横浜に留まった外国商館も、業種を変更するなど新たな展開を見せています。資本主義が進展する中で、横浜は貿易都市から工業都市への変換をせまられるようになります。
明治42年(1909年)の開港五十年祭以後、横浜経済は工業化にむけてあゆみをすすめ、第一次大戦開戦後の好況で、いっそうの繁栄をむかえました。
しかし、第一次大戦が終結すると、大量失業時代となり、大正9年(1920年)3月には恐慌がおこり、横浜経済は打撃を受けます。
明治37年(1904年)に石渡道助が創刊した『実業之横浜』は、新たに芽生えた横浜のビジネスや国内海外の経済事情を広く紹介し、購読者をえました。その後昭和期にいたるまで、『大横浜』、『工業之横浜』と改題しながら発行されています。
展示では、貿易都市から工業都市へと移り変わる混沌とした100年前の横浜のすがたを、『実業之横浜』をとおして紹介します。
(上田由美)
『実業之横浜』1巻10号(明治38年5月)
当館蔵 石井光太郎文庫