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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第98号
2007(平成19)年10月31日発行

表紙画像
企画展
100年前のビジネス雑誌『実業之横浜』−変貌する都市と経済
企画展
実業雑誌と『実業之横浜』

『実業之横浜』に見る実業雑誌
展示余話
有吉忠一の和歌
資料よもやま話1
「たまくすプロジェクト」始動
資料よもやま話2
イギリス駐屯軍と居留地社会
新収資料コーナー(6)
武州橘樹郡市場村「御用留」
資料館だより

企画展
実業雑誌と『実業之横浜』

明治末期、呉服店の自己革新

  一と口に実業雑誌といってもその内容は実にさまざまである。それが地方誌ならば、雑誌が発行されている地域の性質を色濃く反映していることはいうまでもない。

  『実業之横浜』は、20世紀初頭の横浜の、さまざまな経済事情や新しく生まれたビジネス、企業や商店、工場を紹介する記事が満載されているが、ここでは、小売商の動向のうち、横浜の呉服店の動向について紹介しよう。

  横浜の消費者は、高額商品を買うためには汽車賃を払って東京にまで行ってしまうことが少なくなく、買い廻り品である呉服も同様であったとされる。(「入九か○正か」3巻11号 明治40年4月)。

越前屋呉服店 中央はショーウィンドウの有る正面、右上から時計回りに、「三階均一部」「雑貨部」「四階の休憩所」「二階陳列室」
『実業之横浜』6巻21号 明治42年(1909年)10月 横浜市中央図書館蔵

越前屋呉服店

  横浜開港50周年を迎えた明治42年。『実業之横浜』満五年紀年号である6巻21号(明治42年10月)の口絵には、越前屋・野沢屋・相模屋・鶴屋、の横浜を代表する呉服店の写真が掲載されている。最も近代的な外観をもつものが、伊勢佐木町の越前屋で、屋上に庭園づくりの「休憩所」をもつ鉄骨レンガ造り三階建て。取り扱う商品の価格帯がもっとも低廉な帯上げ類・半襟・羽織紐・化粧品・玩具を扱う「雑貨部」が一階、二階で呉服・太物・帯などを販売する。三階は「均一部」で、50銭・25銭の価格均一商品を並べた。越前屋開店の評判は大きく、同年5月15日から19日までの5日間で20万人の客をあつめたとされる(「五日間に二十万の買客を引き附けたる越前屋」6巻12号 六月)。

  相模屋もまた、陳列売りである。亀の橋の鶴屋も陳列所をもち、ショウケースの写真が掲載されている。また鶴屋はショーウィンドウを備えていた。そしてこれら諸店は、下足のまま店内を行き来できたのである。

  店員が客と一対一で膝を交えて反物などを売るような販売のありかたは、すでに時代遅れであった。旧態然とした店構えを、弁天通りに維持していた老舗の野沢屋(生糸商茂木商店が経営)も、越前屋に半年遅れて伊勢佐木町にショーウィンドウ、陳列売りの支店を開くことになる。

  東京の三越、京都の高島屋に肩をならべられるのは、横浜では野沢屋ぐらいであるといわれた。その経営組織は、仕入部・販売部・誂物(あつらえもの)部・意匠部・計算部、の五つからなり、とくに「独立設置するは不利益」を承知で置いたのが「意匠部」であった。絵師・模様師を雇い、野沢屋独特の「珍柄を案出して流行の参謀部たる任務」にあたった。(「野沢屋呉服店が営業上最も留意する諸点」6巻11号 5月)。また、伊勢佐木支店開店の際には、「野沢紬」なる比較的廉価なオリジナル商品が発売を予定されていたことが確認できる(「野沢屋呉服店支店開業」6巻23号 11月)。流行とオリジナル商品の創出が野沢屋呉服店の戦略であった。

  以上みてきたように、横浜の有力呉服店の店売りが、陳列売りに転じたのが20世紀初頭であった。ショーウィンドウを備えたばかりか、人形に服を着せて飾るという広告手法も採用されていた。

「楽しき散歩」と題された野沢屋伊勢佐木支店のショーウィンドウ
『実業之横浜』6巻26号 明治42年(1909年)12月 横浜市中央図書館蔵

「楽しき散歩」と題された野沢屋伊勢佐木支店のショーウィンドウ

  明治44年5月1日から、鶴屋で催された新柄陳列会は、三階の陳列場を「娯楽場」として、養蚕農家に仕立てて、蚕の飼育から糸繰りの情景を再現し、そのかたわらで、実際に縮緬(ちりめん)を織るという、アミューズメント性を高めた広告に乗り出している。また「潮干狩りの時代風俗人形」「おさるとうさぎ」の人形を置き。「お遊びかたがた」の来店をうながしている。アミューズメント性という点では越前屋の屋上庭園も「お遊びかたがた」の方策といえよう。

  鶴屋はその後松屋となって、銀座と浅草で、野沢屋は横浜松坂屋となって伊勢佐木町で、現在も経営を続けている。両社は百貨店、すなわちデパートメント・ストアに転身したのである。

  デパートの前身と一般的にとらえられているのは勧工場(かんこうば)である。その発生について詳述はしないが、2〜3層の建物に各種商店が集合した勧工場の最盛期は、明治20年代〜30年代といわれている。横浜では、伊勢佐木町一丁目の帝国商品館と横浜館の二つの勧工場が著名であったが、現在確認できる『実業之横浜』において、その両勧工場は記事として取り上げられていない。かわりに3巻4号(明治39年11月)の「雑録」に「組織的勧工場」と題してアメリカのデパートメント・ストアが紹介されている。

  商品が一堂に集まっているという点で、勧工場はデパートの前身であるかもしれない。しかしながら、デパートのもつアミューズメント性、流行の先取、オリジナル商品開発という点では、呉服店の自己革新というべきものが先行したのである。

  呉服店という一例であるが、『実業之横浜』は、このような横浜経済の細やかな動向を記録して興味がつきない。

(平野正裕)


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