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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第96号
2007(平成19)年4月25日発行

表紙画像
企画展
横浜浮世絵
−よみがえる幕末・明治の町づくり−
展示余話
伏島近蔵(ふせじまちかぞう)関係資料について
資料よもやま話
生糸商茂木商店と二人の旧大村藩士
−森謙吾(もりけんご)と長與専斎(ながよせんさい)−
新収資料コーナー(4)
幕末横浜英駐屯軍士官旧蔵写真帳
資料館だより

横浜浮世絵を代表する絵師とその作品
−貞秀・2代広重・3代広重の作品から−

2代広重が描いた山手居留地

  2代広重は東海道五十三次を描いたことで有名な初代広重の門人である。定火消同心の家に生まれ、本姓は鈴木氏(あるいは森田氏)、俗称鎮平、初名を一幽斎重宣(いちゆうさいしげのぶ)という。初代広重が没した後に、初代の長女の婿となり2代目を襲名、一立斎広重を名乗った。2代目襲名は横浜開港の時期と重なり、以後、横浜の遊郭や洋館を題材にした作品約40点を残した。

  しかし、慶応元年(1865年)には妻との仲が悪くなり、歌川家を去り、その後は喜斎立祥と改名した。また、この頃から輸出用の茶の箱に貼付するラベルの絵を描くようになり、花鳥や風景を描いたラベルがいくつか残されている。


(2)横浜高台英役館之全図 2代広重画

横浜高台英役館之全図

  (2)は明治初年の2代広重の作品で、喜斎立祥の名で刊行されたものである。右上に「横浜高台英役館之全図」と記され、慶応3年(1867年)に山手居留地120番に建設されたイギリス公使館を描いている。

  ちなみに、山手地区(現在の山手町)に居留地が置かれたのは慶応3年のことで、これ以後、外国人居留地は大きく拡大した。従来からあった山下地区の居留地は商工業地区として、新たに置かれた山手地区の居留地は住宅地区として、それぞれ特色ある町並みを作っていくことになった。この絵は、新たに作られた居留地の様子を現在に伝えるものである。

  また、イギリス公使館はアメリカ人建築家のブリジェンスが設計したもので、耐火構造の洋風建築であったと伝えられる。慶応2年には江戸にイギリス公使館が設置されていたが、当時、駐日特命全権公使パークスはおもに山手地区の公使館に住んだといわれている。しかし、明治維新後は公使館の業務がしだいに東京に移されたようで、この絵が刊行された頃のパークスの活動拠点も東京に変わったようである。また、この建物については写真も残されているが、2代広重の作品がかなり写実的なものであったことが分かる。

  次に、絵の前面に描かれているのはイギリスの軍楽隊と兵士である。山手地区にイギリス軍が駐屯を開始したのは文久3年(1863年)のことで、前年に発生した生麦事件がきっかけであった。この時、居留外国人の殺傷事件は大きな外交問題になり、居留民保護と居留地防衛を名目にイギリス・フランスが山手に軍隊を駐屯させることになった。

  もっとも多くの兵士が駐屯したのは元治元年(1864年)であり、イギリス・フランスあわせて2,300人に達した。山手地区には、その後もかなりの人数の兵士が駐屯し、2代広重は駐屯するイギリス兵を描いたことになる。イギリス・フランス両国が山手地区から撤退したのは明治8年(1875年)で、その後はこうした光景が見られなくなった。

  (西川武臣)


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