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企画展
地域リーダーの幕末・維新
−横浜近代化のにない手たち
飯田廣配(いいだひろとも)(『飯田家三代の俤(おもかげ)』[1941年刊]口絵)と添田知通(そえだともみち)(添田有道家蔵)
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安政6年(1859年)の開港によって、100戸たらずの小村であった横浜は急速に都市として発展します。その発展のさまは、今日、写真や地図などによって比較的容易にあとづけることができます。他方、都市生活を支える機能の側面はこれまで充分に認識されてこなかったと思います。
例えば、都市横浜の重要課題であった水道問題は、明治20年(1887年)の近代水道の開設によって一応の解決をみるのですが、それ以前、横浜の生活水がどのように充たされていたかという点は、一般にはあまり知られていません。
開港によって居留地(きょりゅうち)がおかれたことにより、横浜周辺では攘夷派による外国人殺傷事件が多発します。外交問題に直結するおそれのある横浜の治安は、どのように維持されたのでしょうか。
開港場横浜を保持するためには、幕府や明治政府の政治権力だけでは不十分でした。また急速な都市化により、横浜の都市機能の整備は後手にまわりがちでした。そこには周辺住民の力にたよらざるをえない状況があったのでした。
北綱島村(現港北区)の飯田廣配(いいだひろとも)(1813年〜95年)、市場村(現鶴見区)の添田知通(そえだともみち)(1830年〜96年)は、横浜とのかかわりを深く持った地域リーダーでした。二人は、村役人である名主(なぬし)役でしたが、幕末には農民による「農兵」を組織して武装し、横浜の治安維持体制に積極的にかかわりました。
さらに飯田は、横浜周辺から生じる下肥(しもごえ)(屎尿)を橘樹(たちばな)・都筑(つづき)郡の農村にむけて供給し、明治期には農閑期に周辺農家が作る天然氷を、自前の氷室で保存し、夏期に横浜・横須賀などにむけて販売しています。
添田は、水害の多い多摩川から砂利を採掘して外国船に売り込み、さらには木樋(もくひ)によって多摩川の水を横浜にもたらす事業に大きな役割を果たしました。
その他をふくめ、飯田・添田の二人がかかわった事業は、横浜の本格的な近代化以前の、「初期近代化」に寄与したのでした。そしてそれは、周辺地域の利益や活性化も同時に実現したのです。行政の世界で民間の力に期待することが声高に叫ばれる今日、150年前の飯田と添田のアイディアに学ぶものは少なくないのではないでしょうか。
(平野正裕)