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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第94号
2006(平成18)年11月1日発行

表紙画像
企画展
地域リーダーの幕末・維新
−横浜近代化のにない手たち
展示余話
資料の修復
『其唐松』修復の記録から
学術交流
仁川(いんちょん)広域市立博物館訪問記
資料よもやま話
横浜のフランス人商会と開拓使
新収資料コーナー(2)
外国語新聞と内閣書記官室記録課
資料館だより

企画展
飯田廣配と添田知通
−地域リーダーとしての生涯−


  飯田助太夫廣配(いいだすけだゆう・ひろとも)は、文化10年(1813年)8月29日、都筑郡吉田村相澤宇兵衛(あいざわうへい)家にうまれ、明治28年(1895年)8月1日に生涯を閉じた。82歳の長寿であった。

  飯田家は、江戸初期に相模国金沢から綱島に移り住んだ助右衛門義直を初代とする。天保6年(1835年)廣配は、飯田家9代助大夫義儔の養子となる。翌年義儔が死に、北綱島村名主役を継ぐ。

  添田七郎右衛門知通(そえだしちろうえもん・ともみち)は、天保元年(1830年)年3月28日、橘樹(たちばな)郡市場村にうまれ、明治29年2月14日に生涯を閉じた。

  添田家の始祖についてはつまびらかでないが、寛永期(1624年〜44年)は市場村に「七郎右衛門組」があったようである。弘化5年(1848年)年先代知治(ともはる)の死去により市場村の名主役を継ぐ。廣配・知通ともに弱冠20歳前後の若さで家長となり、村の代表の地位に就いた。

  寄場組合の設立

  江戸時代、関東は幕府領・旗本領・藩領が錯綜していた。19世紀初頭には、事実上土地を手放して、小作に転落する農民が顕著になり、賃労働を求めて村を離れ、江戸や町場で働く者が増えていた。そのなかで腕力で世間を渡ってゆく輩や長脇差(ながわきざし)を帯びた者が生まれてくる。村に生まれ、村で一生を終えることがあたりまえであった農村に、そ者が目立ち、一揆・うちこわしの風聞も伝わり、社会不安が深刻化する。

  文化2年(1805年)、幕府は関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)を置き、幕領・私領とわず村々を巡回させて、警察権を行使して治安を強化した。さらに文政10年(1827年)には水戸藩領などを除いた関東全域に、村落を数十カ村まとめた広域組織である「寄場組合(よせばくみあい)」を編成し、関東取締出役からの法令・取締の徹底をめざした。

  添田知通は、ペリー来航の嘉永6年(1853年)10月に24歳で川崎宿寄場組合大総代名主に就いた。そして翌年2月の横浜におけるペリーと幕府との条約交渉の応接所に「見置」として出張し、前後の事情を含めて、後年著名になる「亜米理駕船渡来日誌(あめりかせんとらいにっき)」を書き残すことになる。

  横浜開港と治安体制

  安政6年(1859年)、前年締結された安政五カ国条約により横浜は開港した。神奈川宿寄場組合のうち、神奈川宿ほかが横浜を管轄する神奈川奉行所預かりとなることで分かれ、綱島寄場組合に組織替えされた。飯田廣配は神奈川宿組合にひきつづき大総代に就く。

  安政五カ国条約には外国人遊歩区域(旅券を所持せず旅行できる区域。東は多摩川を境界として各方向に10里)が決められていた。横浜開港後、攘夷派による外国人襲撃事件が発生するにおよんで、安政7年(1860年)2月末、幕府は多摩川と相模川とにはさまれた区域に、新たな監視体制をしくことになった。遊歩区域内の多摩川筋(18カ所)・相模川筋(13カ所)・鶴見川筋(5カ所)・内郷筋(武州11カ所、相州7カ所)・海岸(3カ所)に「見張番屋」を設置し、村役人・道案内・村人足などを詰めさせた。さらには鶴見川筋の橋13カ所には「見張木戸」(大木戸6カ所・小木戸7カ所)を置き、寄場組合にその管理・運営をまかせた。また、廣配・知通ら遊歩区域内計8か宿村の寄場名主・大総代らは「神奈川表取締触次名主」として位置づけられ、関東取締出役と神奈川奉行所の二重の指揮下に置かれることになる。

  川崎宿・綱島村の見張番屋は、神奈川に直結する東海道・綱島街道にあるばかりでなく、寄場組合の中核である寄場村にあり、かつ鶴見橋・綱島橋の大木戸をもつという、要衝中の要衝であった(資料1)。


資料1  鶴見橋見張大木戸の仕様書(「御取締御用出勤入用使人足控帳」 安政7年[1860年]2月) 添田有道家蔵
〈写真をクリックすると新しいウィンドウを開き拡大表示します〉
鶴見橋見張大木戸の仕様書


  廣配が記した「金銀米銭萬出入帳」には、元治2年(1865年)2月24日に「綱島新羽見張二ヶ所分御下ヶ金」「同諸用」として114両余が、5月3日に「見張二ヶ所分御下ヶ金」として200両が、同7日には「見張七ヶ所御年番御下ヶ金」として527両が幕府から支出されている。番屋の設備と人員配置の両方の費用であり、綱島寄場組合管下七ヶ所総体も含むが、横浜の治安維持に相応の費用がかかったことが判然とする。

  元治元年(1864年)10月鎌倉で英国士官殺害事件が発生した。翌月新羽村番屋の取締によって、高座郡羽鳥村名主宅に強盗に入った浪人2人が取り押さえられたが、逃亡した1人が英国士官を殺害犯清水清次であることが判明した。このように「横浜表別段御取締」と文書に記される見張番屋を中心とする治安体制は、相応の機能を果たし、一部番屋の廃止を含みながら慶応3年(1867年)6月まで存続した。

  慶応2年6月、秩父地方で武州世直し一揆がおこり、一揆勢が横浜に攻めのぼるとの風聞がたった。結局、一揆は多摩の江川代官支配の農兵らによって鎮圧されたが、一揆の衝撃から、綱島寄場組合は7月、川崎宿組合は9月に農兵取り建ての建議をし農兵を組織する。現在の神奈川県域での農兵取り建ては、藤沢・戸塚・小田原・浦賀などの例があるが決して多くはない。横浜治安維持の重要地点にある廣配・知通の農兵取り建ては特筆すべきものであろう。


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