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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第94号
2006(平成18)年11月1日発行

表紙画像
企画展
地域リーダーの幕末・維新
−横浜近代化のにない手たち
企画展
飯田廣配と添田知通
−地域リーダーとしての生涯−
展示余話
資料の修復
『其唐松』修復の記録から
学術交流
仁川(いんちょん)広域市立博物館訪問記
新収資料コーナー(2)
外国語新聞と内閣書記官室記録課
資料館だより

資料よもやま話
横浜のフランス人商会と開拓使


  1869年(明治2年)から1882年に北海道開拓をおもな目的に、中央官庁のひとつとして開拓使が置かれた。薩摩藩出身の黒田清隆(くろだきよたか)が中心となって、アメリカの農務局長ケプロンを顧問に、また多数のお雇い外国人を招いて開拓事業をすすめた。1876年から1877年に札幌農学校で教え「少年よ、大志をいだけ」という言葉で知られるクラークもそのひとりである。

  かれらお雇い外国人やその他の外国人から開拓使に送られた報告書や書簡など、約5000通が今日、北海道大学附属図書館北方資料室に保管されている。「開拓使外国人関係書簡」と呼ばれる史料群である。

  この書簡群には、また横浜と開拓使との間に頻繁にやりとりがあったことを示す書簡が多数、みられる。『開拓使外国人関係書簡目録』(1983年)の秋月俊幸の解題によると、「開拓使は北海道開拓のために必要な機械、資材、物品の多くを外国から輸入したが、それらの輸入を引受けたのも全て在日外国商会であり、そのことに関する書簡や請求書、船荷証券の類も多数残されている。一方では開拓使は鮭・鱒缶詰、鹿肉缶詰、猟虎(らっこ)皮、蚕種、絹糸、ビール、葡萄酒、小麦粉等の北海道産物についての品評を彼等に依頼し」た。

  この在日外国商会の多くは当時、日本で最大の外国人居留地であった横浜居留地に店を構える商会であった。1872年(明治5年)から10年計画で、毎年100万円の政府支出と管内税収を投入して開始された開拓事業は、かれらにとり大きなビジネス・チャンスとなったと思われる。

  ペール(兄弟)商会(Peyre Frères)

  フランス人兄弟が経営するペール商会も、このチャンスを捉えて事業拡大をはかろうとした商会のひとつであったと思われる。1878年(明治11年)から1879年頃に開拓使との間で交わされた9通の書簡がこの史料群にのこっている。

  ペール商会については居留地の人名録である『ディレクトリー』や当時、横浜居留地で発行されていた欧文新聞、来日外国人の紀行文などを基にホテル業に焦点を当てて纏めた澤護(さわまもる)『横浜外国人居留地ホテル史』(白桃書房、2001年)で紹介されているが、まだ不明な点が多い。

  ペール商会洋菓子店の開業

  ペール兄弟のなかで最初に来日したのはサミュエルで、1874年(明治7年)頃のことで、居留地84番(現中区山下町84番地)のオリエンタル・ホテルに勤めた。ついでジャンが来日し、翌1875年12月17日には早くも80番に洋菓子店を開いた。2人は「フランスのモーリエで大きなパン店を開いていた「ペィル父子商会」の兄弟」(澤著170頁)であったという。新聞の開業広告によると宴会用料理仕出業も兼ねた。

  開業から3年めの1878年(明治11年)6月24日、洋菓子店は80番から84番に移転した。サミュエルが来日時に勤めたオリエンタル・ホテルが大手のグランド・ホテルを手に入れて移転したため、その後に入ったのである(澤著170頁)。

  お雇い外国人を父にもち、後に勝海舟の息子、梅太郎と結婚するクララ・ホイットニーはこの頃、東京に住んでいたが、横浜を訪ねる度によくこの店で食事をしたり、お菓子を買い求めたりしたことを日記に書きのこしていて、横浜だけでなく東京の外国人社会でも知られるようになっていた(澤著171〜172頁、『クララの明治日記(上)』)。

  つぎに紹介する開拓使とペール商会との間の書簡3通は、この頃に交わされたものであろう。

  開拓使からの料理の注文

  開拓使東京出張所から1878年(明治11年)6月12日の23名分の宴会料理の注文を受けたペール商会は、9日付でメニューを知らせるとともに開拓使から牛肉・鹿肉・鮭の缶詰などの食材を受け取った旨の書簡を送った(書簡番号「ペール兄弟社」007)。メニューにはイタリア風ソースの鹿肉、マヨネーズソースの鮭、ロシア風サラダ、ゼリー寄せ冷製パテなどが記されていた。

  さらに翌10日付で開拓使は2名分の追加注文をおこない(控え、同前001)、11日には、翌12日の宴会料理を間違いなく朝8時の汽車で送るよう確認する電報を送っている(控え、同前008)。

  この時の料理が評判をえたのか、同年8月にも、ペール商会は同様の注文を受けている(同前002、004)。

  開拓使本庁は、1870年(明治3年)、東京から函館に、翌1871年には札幌に移った。しかし明治政府との連絡のため、東京に出張所を置き、開拓長官はここに常駐して北海道に指示を送っていた。

  石狩川の鮭を使った日本初の西洋式缶詰工場である開拓使石狩缶詰所が1877年(明治10年)10月、操業を開始した。出張所では鮭をはじめとする開拓使製缶詰の品評のため、あるいは販路開拓をめざして試食会を開き、その調理を横浜のペール商会などに依頼し、わざわざ汽車で東京まで運ばせたのである。


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