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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第94号
2006(平成18)年11月1日発行

表紙画像
企画展
地域リーダーの幕末・維新
−横浜近代化のにない手たち
企画展
飯田廣配と添田知通
−地域リーダーとしての生涯−
学術交流
仁川(いんちょん)広域市立博物館訪問記
資料よもやま話
横浜のフランス人商会と開拓使
新収資料コーナー(2)
外国語新聞と内閣書記官室記録課
資料館だより

展示余話
資料の修復
『其唐松』修復の記録から


  先般開催した「知られざる横浜の歴史と文芸―石井光太郎とその文庫―」展では、石井光太郎文庫の『其唐松』を修復した経過を「石井光太郎文庫『其唐松』修復の記録」として、特別資料コーナーで展示しました。

  『其唐松』は、甲斐の俳人米珠(べいしゅ)と引蝶(いんちょう)が編纂した俳書で、安永5(1776)年の序があります。『其唐松』という書名は、西行の「甲斐国巨摩の郡の苗敷きの其の唐松の下ぞすゞしき」の和歌に因んでおり、苗敷を訪れた諸家の句が集録されています。本書は、天・地2冊本で、山梨県立博物館の甲州文庫に天・地揃いの1組があり、雲英末雄(きら・すえお)先生(早稲田大学文学学術院教授)が地を所蔵されているほかには、所蔵の確認されていない大変貴重な資料です。石井光太郎文庫には天がありましたが、虫損(ちゅうそん)がひどい状態でした。

  『其唐松』天には、調唯といった甲府の俳人の句だけではなく、駿府の盤古(ばんこ)(月巣=げっそう)や松本の鶴老といった俳人の句も入集しています。武蔵国についても秩父の山蛍、鴻巣の祇道、熊谷の雪江などの句が見られます。相模国では鎌倉・厚木・藤沢・湯本・箱根・小田原の俳人の句が入集しています(写真1・2)。


写真1  修復前の『其唐松』。相模の俳人の句の部分に石井が挟んだと思われる紙片が見られる。
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修復前の『其唐松』


写真2  修復後の写真1の部分
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修復後の写真1の部分


  『其唐松』が編纂された時期は、宝暦年間(1751〜64)から安永年間(1772〜81)にかけて、江戸俳壇に雪中庵(せっちゅうあん)大島蓼太(おおしま・りょうた)が出現し、江戸蕉門(しょうもん)の主流、其角(きかく)門と対抗する雪門派(せつもんは)が勢力を盛り返した時期でした。『其唐松』に入集している小田原の俳人には、素兄(そけい)・尾跡(びせき)・其要(きよう)など、雪門派の俳人の名を見ることができます。また藤沢の千豈(せんがい)・白蝉・梅車・梅右、厚木の梅明(ばいめい)などの名もみられます。天明・寛政期(1781〜1801)になると、春秋庵白雄(しらお)系の俳風が武蔵・相模一円に広まりますが、本書は、白雄出現以前の武蔵・相模の俳壇を知ることのできる重要な資料です。

  当館で修復を行う際に留意するのは、第1に修復に際して資料の劣化を促進するような材質を使用しないこと、第2に修復の経過が記録されており、修復の内容が明らかであること、そして最後に展示資料として、修復された資料の風合いが修復前の状態と大きく変わらないこと、の3点です。

  行われた修復は、表紙・裏表紙の修復のほかに、本紙全42丁すべてについて、虫損箇所に剥がれた紙片をはめ込みました。そして資料と同質の和紙繊維を溶かした水溶液に資料を浸し、虫損・破損部分にだけ水溶液を定着させるリーフキャスティングと呼ばれる修復方法を行なうというものでした。虫糞などの汚れは取り除かれましたが、修復前の資料の厚さが8ミリ、修復後の厚さも8ミリで、大きな厚みの変化もありません。修復前のものと同じ色に染めた糸で綴じられた修復後の『其唐松』は、約230年の歴史をもつ資料の風合いが生きています。もちろん、修復により、収録された句を読みとることも可能になり、資料的な価値も蘇りました(写真2・3)。


写真3  ホルダーに収められた修復後の『其唐松』
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ホルダーに収められた修復後の『其唐松』


  『其唐松』の修復にみられるように、修復により貴重な資料が生き返り、再び展示や閲覧に供することができるようになります。修復は、資料のもつ歴史的な意義を生かし、また資料的な価値を蘇らせる作業です。そして修復は、資料を後世に伝える当館の大切な業務のひとつです。

  今回の修復は、(有)紙資料修復工房が行いました。写真も同社の提供です。

(石崎康子)


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