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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第94号
2006(平成18)年11月1日発行

表紙画像
企画展
地域リーダーの幕末・維新
−横浜近代化のにない手たち
企画展
飯田廣配と添田知通
−地域リーダーとしての生涯−
展示余話
資料の修復
『其唐松』修復の記録から
学術交流
仁川(いんちょん)広域市立博物館訪問記
資料よもやま話
横浜のフランス人商会と開拓使

ペール(兄弟)商会(Peyre Frères)
ペール商会洋菓子店の開業
開拓使からの料理の注文
フランスへ缶詰の見本を送付
ペール兄弟ホテルと火事
ペール商会のその後
新収資料コーナー(2)
外国語新聞と内閣書記官室記録課
資料館だより

資料よもやま話
横浜のフランス人商会と開拓使

  開拓使製鮭缶詰を品評

  ペール商会は調理とともに品評も頼まれ、つぎのような評価を開拓使に書き送っている(1878年9月21日付、同前005)

  「昨日、新しい鮭缶詰6缶を受け取りました。
  今回の缶詰は私たちの目からは、前回程のものではないけれど、調理の材料として使ってみてもいいと思われる品です。
  缶を開けるとすえた匂いが何となくし、鮭の身は表面が乾燥していました。
  思うに、この鮭は缶詰に加工される時からあまり新鮮でなく、また長く煮すぎたようです。
  また、おそらくこの鮭が調製された時期は鮭のシーズンではなかったに違いありません。
  ここで言っておかなければならないことがあります。それは鮭料理を望むお客さまに提供するにはもっとたくさんの鮭缶詰が必要で、それも鮮魚の代わりとしてソースや新鮮な野菜を添えてお出ししなければなりません。
  受け取った缶詰よりも2〜3倍大きな缶で、みごとな切身一切れか、あるいはしっぽ二切れが円形の缶にきっちり詰められている缶詰が望ましいと思います。
  このようなやり方で缶詰にされた鮭は一般的に冷製で食せられます。というのは焼いたり、ソースやスープなどで煮込んだりすると身が崩れて料理として供するのに具合がわるいからです。
  最もよい料理方法は、私たちの考えでは、何かソースをかけることであり、そうすると見栄えもよく、また野菜や卵で飾ることもできます。見栄えがすばらしいこの料理は前菜の品として重宝されるでしょう。
  この鮭缶詰はまた野外やスポーツ行事、船上でのパーティーに向いていて、油や酢を加えるだけで食欲をそそるまことに立派な一品となります。」

  フランスへ缶詰の見本を送付

  日付が明記されていないが、おそらくこの頃のものであろう、フランスへ缶詰の見本を送る旨のペール商会の開拓使宛て書簡がのこっている(同前009)。

  「私たちの品評を求める魚の缶詰12缶を受け取りました。
  受け取った缶詰は味もよく、とてもよい状態に調製されていました。
  この内の6缶を次のフランス船で本国の私たちの取引業者に送ります。そして大手の商館にそれらを持ち込んで品評してもらい、この商品がどんな利益をあげられるか、知らせてもらいます。
  私たちはこの缶詰がこれまで横浜で本格的な販路を得られたとは思っていません。横浜では安くて新鮮な魚がたいへん豊富であり、例外を除いて缶詰に頼る必要はないくらいだからです。
  私たちはそれでも見本を海産物納入業者に提供しました。
  ですが横浜でこの缶詰を販売するおおよその値段を付けることはほとんど不可能です。品物に値を付けるためには、まず商品が知られ、評価されなければならないからです。」

  開拓使製缶詰について一定の評価はするものの、国内で販路を見いだすのはむずかしいと判断したペール商会は、ヨーロッパでの販路開拓の可能性をさぐるべく、本国の業者へ見本を送ることにした。残念ながら本国からの返答は見当たらない。

  ペール兄弟ホテルと火事

  開拓使出入り業者となったペール商会は1879年(明治12年)、洋食・洋菓子店を拡大し、84番でペール兄弟ホテルを開業した。サミュエルとジャンに加えてウジェーヌとジュールの兄弟も来日し(澤著170頁)、事業拡大をはかったと思われる。


横浜の本町通りにあったペール兄弟ホテル(84番)
元町方面から日本大通り方向を見たもの。左手がホテル。大きな看板が見える 石黒敬章(いしぐろたかあき)氏蔵
〈写真をクリックすると新しいウィンドウを開き拡大表示します〉

横浜の本町通りにあったペール兄弟ホテル(84番)


  ところが3年後の1882年(明治15年)8月8日未明、隣の83番館からの出火で、辛うじて家具類を持ち出すことができたもののホテルは全焼してしまった。同年12月4日、85番に洋菓子店を移転し再起をはかったが、ホテル業の復活はなかった(澤著171頁)。またこの年の2月、開拓使も廃止となった。

  掲載写真はホテル時代の84番館を撮した貴重な(着色)写真である。

  ペール商会のその後

  『ディレクトリー』の記載によると、移転後、同商会はウジェーヌ一人で切り盛りし、洋菓子業としてその後も20年以上にわたって事業をつづけた。酒類販売も手がけ、フランス艦隊出入り業者ともなっている(『横浜姓名録』明治31年刊)。しかし火事に遭う以前のような繁盛振りを取り戻したかはわからない。

  ペール商会とウジェーヌは1905年版『ディレクトリー』の記載を最後に横浜(日本)から姿を消した。帰国したという記録は今のところない。また山手外国人墓地には、1886年3月に28歳という若さで亡くなった妻が眠っているが、ウジェーヌ本人が葬られたという記録もない。

  「ペール兄弟社書簡」の利用にあたっては北海道大学附属図書館、同館北方資料室に、またペール兄弟ホテルの写真利用にあたっては所蔵者の石黒敬章氏にお世話になった。ここに記して感謝申し上げます。

(中武香奈美)


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