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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第94号
2006(平成18)年11月1日発行

表紙画像
企画展
地域リーダーの幕末・維新
−横浜近代化のにない手たち
企画展
飯田廣配と添田知通
−地域リーダーとしての生涯−

寄場組合の設立
横浜開港と治安体制
砂利と天然氷と
明治期の飯田廣配・添田知通
展示余話
資料の修復
『其唐松』修復の記録から
学術交流
仁川(いんちょん)広域市立博物館訪問記
資料よもやま話
横浜のフランス人商会と開拓使
新収資料コーナー(2)
外国語新聞と内閣書記官室記録課
資料館だより

企画展
飯田廣配と添田知通
−地域リーダーとしての生涯−

  都市横浜のライフライン

  もともと砂州地であった関内地区は井戸水に恵まれず、急増する人口に対して、水の確保は生活・衛生両面で急がれる課題であった。

  添田知通は、川崎稲毛二ヶ領用水組合の総代として、地元民を調整し、鹿島田(かしまだ)分水案を提示して、多摩川から横浜に木製の樋(ひ)で水をもたらす計画を明治4年(1871年)2月、大倉喜八郎・高島嘉右衛門・石川半右衛門・同徳右衛門ら横浜の名主年寄とともに、県に出願した。木樋(もくひ)水道は翌月着工。2年後の12月に関内の日本人街に通水した。通水に際して、横浜商人の原善三郎・茂木惣兵衛・鈴木保兵衛らも加わり横浜水道会社が設立された。知通はこの時、水道会社から外れて管理組合の総代となる。この木樋水道は、多くの問題を含みつつも、パーマー設計の近代水道が実現する明治20年(1887年)まで用いられた。

  幕末期、関東では農業肥料としての下肥(しもごえ)価格が高騰した。他方、横浜が急速に人口を増大させるにおよび、慶応3年(1867年)飯田廣配は、神奈川宿青木町掃除方総代源六(げんろく)とともに、都筑郡恩田村ほか12カ村の開墾のための肥料として、太田町・新吉原町などの下肥の収集に乗り出した(資料2)。それまで横浜の下肥は、源六と元町の村役人が仕切っていたようである。廣配参入の背景には「当節ニ相成新規吉原町も追々家作取建ニ相成諸職人等も多人数入込下掃除方差支」とあるように人口の急増で下肥処理が追いつかない事情があった。その後廣配は野毛町や北仲通芝居町、入舟町などに収集範囲を広げてゆく。明治7年(1874年)には廣配が、石橋六之助から引継ぎ小宝町豊田豊が担っていた外国人居留地と、高島町の下肥処理に乗り出してゆくことが古文書から判明する。そしてそれらは、北綱島・吉田・大曽根・高田・大棚・太尾・下末吉・折本・川和・新羽・樽・池辺などの旧「寄場組合」域、鶴見川流域各村に配られた。残念ながら、下肥処理が廣配の事業としてどこまで続いたかは不明である。


資料2  太田町・新吉原町の下肥で都筑郡恩田村ほか12カ村開墾を申し出た願い書き
慶応3(1867)年6月飯田助知家蔵・神奈川県立公文書館寄託
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太田町・新吉原町の下肥で都筑郡恩田村ほか12カ村開墾を申し出た願い書き


  知通の木樋水道と、廣配の下肥処理は、未熟な横浜のライフラインを補完する事業であった。それが、地元にどのような利益をもたらしたかは、今後の課題として残る。

  砂利と天然氷と

  今回の展示で特記すべきは、添田家文書の多摩川砂利関係資料の新出である。砂利は外国船の安定した航行のため船底にしく「船足(ふなあし)砂利」として横浜にもたらされた。(資料3


資料3  多摩川の砂利採掘関係の文書・記録類 明治3年(1870年)〜4年 添田有道家蔵
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多摩川の砂利採掘関係の文書・記録類


  内海孝氏の研究にもあるとおり、玉川砂利会社は明治3年(1870年)7月に設立認可をうけた。設立者は西村七右衛門・三浦勘助・山口屋林助・宝田屋太郎右衛門である。しかし会社設立の前提には、砂利を掘り取る「元方会所」を取り締まる添田知通を代表とする多摩川下流域の名主たちと、「横浜表会所」を担当する石川半右衛門・高島嘉右衛門・鈴木保兵衛の双方による事前の申し合わせがあった。ここには、翌年の木樋水道建議のメンバーが顔をそろえており、西村らは砂利「売捌方請負人」なのであった。

  多摩川は水害の多い河川である。砂利の採掘は、川の流れを確保して水害を予防し、かつ流域貧民の稼ぎを創出する、という地元には一石二鳥の意味をもった。採掘は6月上旬に始められ、回漕方元会所の「日記」同月9日には「砂利穫り場所混雑」と記されている。採掘開始から間もない7月26日、品川県役人から、「鉄道方へ砂利先送り」、つまり横浜―新橋間の鉄道建設に優先的に砂利を確保できぬかという打診があった。10月22日「鉄道御用砂利」の値段は1坪3両2分と試算された。ちなみに外国船への売り込み基準価は船賃含めて4両2分だった。

  飯田が横浜に天然氷を供給したことは、平成16年度当館企画展示「リバーサイドヒストリー  鶴見川」でも紹介した。冬季に湧水を田圃に引いて天然氷をつくり、鶴見川の河岸から横浜・横須賀などに出荷した。横浜では、飯田が真砂町に建てた氷室で保存して、夏期に販売した。天然氷の製造は、大正期まで確認でき、鶴見川流域の「農間稼ぎ」として実に息の長い産業となった。

  明治期の飯田廣配・添田知通

  飯田廣配の生涯は、一言で言えば地元の殖産興業に尽くしたことである。明治期、廣配は採氷業だけでなく、養豚・養蚕・製藍などにも手をそめた。事業を大きくしすぎ、失敗に終わったものも少なくなかったという。大柄な体躯に恵まれ、新しい事業を切り開いてゆくバイタリティあふれる人生であった。

  添田知通は、壮年期以降を神奈川県吏員として過ごした。知通は、明治7年(1874年)5月に神奈川県権大属租税課に召しかかえられ、明治国家最大の税制改革である地租改正事業の中心をになった。明治17年(1884年)6月には神奈川県収税長に勅任。そして明治25年(1892年)の依願免官にいたるまで約20年間、7代5人の県令・知事に仕えることとなった。晩年は免官を申し出ても何度も慰留された。神奈川県の柱石として手放せぬ人材であったのであろう。

(平野正裕)


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