HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第92号

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第92号
2006(平成18)年4月26日発行

表紙画像
企画展
「外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン−F.ベアト作品展−」から新事実と新収資料
展示余話
横浜陸軍伝習所の日々−福田作太郎手控「陸軍御用留」から−
講演&コンサート
「西洋への扉をひらく」開催!
郷土史団体
郷土史団体連絡協議会の発足―設立大会の開催によせて―
閲覧室から
閲覧室がかわりました!
資料館だより

企画展
外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン−F.ベアト作品展−


サムライと娘  ベアト撮影。当館蔵
〈写真をクリックすると新しいウィンドウを開き拡大表示します〉
サムライと娘  ベアト撮影。当館蔵


F.ベアト  By Courtesy of Old Japan Library
F.ベアト

  幕末の横浜開港から150年が経とうとしています。その間に日本の国土や人々の暮らしは大きく変貌しました。その変貌の過程が、内外のカメラマンによって撮影され、映像記録が残されています。

  写真の発明と普及は19世紀半ばのことです。やがて世界を股に掛けて映像記録を収集する旅行写真家や従軍写真家が登場します。日本が開国し、世界にデビューしたのは、ちょうどそのような時代でした。アメリカのペリー艦隊をはじめ、外国の使節団にはカメラマンが随行していましたが、プロカメラマンが本格的に活躍するのは、やはり安政6年(1859)の開港後のことです。

  開港直後、すでにスイス人カメラマン、ロシエが来日しています。翌1860年にはアメリカ人のジョン・ウィルソンというカメラマンが来日し、プロシャの使節団に現地雇用されています。横浜最初の日本人営業写真家、下岡蓮杖にカメラを譲った「ウンシン」とはこの人のことです。1862年には上海からソンダースというイギリス人カメラマンが出張撮影に横浜を訪れました。

  翌1863年春には、ともにイギリス人のパーカーとベアトが来日し、二人とも横浜の外国人居留地にスタジオを構え、ここを拠点に日本の風景や人々を撮影するようになります。なかでもフェリーチェ・ベアト(FeliceBeato)は、すぐれたセンスと技術をもって、精力的に各地を撮影し、多くの映像記録を残しました。

  横浜開港資料館では、開館以来、ベアトの作品の収集に努めてきました。昭和62年(1987)の春には、企画展示「写真家ベアトと幕末の日本」を開催しました。それからすでに19年の歳月が流れました。その間に、多くの新事実が発見され、また新たな作品をコレクションに加えることができました。

  本展示は、それら新事実を紹介するとともに、ベアトの作品をとおして、文明開化以前の日本に想いを馳せようとするものです。古写真を時代を追って見ていくと、文明開化の産物が点と線のように現れ、やがてそれが面に拡がっていく様子を見てとることができます。ベアトが幕末に撮った写真は、変貌の起点となった日本の原風景を蘇らせてくれることでしょう。

(斎藤多喜夫)


このページのトップへ戻る▲