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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第92号
2006(平成18)年4月26日発行

表紙画像
企画展
外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン-F.ベアト作品展-
企画展
「外国人カメラマンが撮った幕末ニッポン−F.ベアト作品展−」から新事実と新収資料
展示余話
横浜陸軍伝習所の日々−福田作太郎手控「陸軍御用留」から−
郷土史団体
郷土史団体連絡協議会の発足―設立大会の開催によせて―
閲覧室から
閲覧室がかわりました!
資料館だより

講演&コンサート
「西洋への扉をひらく」開催!


横浜シティ・フィルハーモニックによる演奏光景
横浜シティ・フィルハーモニックによる演奏光景

 平成18年(2006)2月19日、はまぎん産業文化振興財団と当館とが主催する「講演&コンサート・西洋への扉をひらく」が、みなとみらいの「はまぎんホール・ヴィアマーレ」で開催された。はまぎん財団と当館とが共同主催する文化事業は、今回が2回目である。

  第1部講演「横浜開港ことはじめ」は、当館調査研究員斎藤多喜夫によって、資料画像をスクリーンに映しながらすすめられた。ペリーが来航して初めて日本人が触れた西洋音楽・洋服・写真・蒸気車・電信機・パン・食肉などの西洋の文化や文物が、その後どのように日本に普及してゆくのか。開港後の横浜は西洋の窓口となってさまざまな「ことはじめ」を生んだ。

  ペリーが幕府に献上した電信機や小型の蒸気車は、横浜での条約交渉の際にお披露目された。遠く離れた場所に信号が届く。煙を吐いてクルマが自走する。みたこともないみやげ物に幕府の役人は目を見張った。そののち電信機は、明治元年(1868)12月25日、横浜裁判所内の伝信機役所が京浜間の公衆電報の受付を開始して普及がはじまった。蒸気車は明治5年に横浜〜新橋間の鉄道開通をもって日本人に親しみのある交通手段となってゆく。

  西洋音楽もペリー艦隊が運んできた文化である。明治2年10月横浜北方の妙香寺で薩摩藩軍楽隊がイギリス陸軍フェントンから軍楽の伝習を受けたことが西洋音楽導入の端緒となった。しかし日本では軍隊と学校の場を除いて、庶民に西洋音楽はなかなか普及しなかった。洋服も同じである。日本人は選択的に西洋文化を吸収したのである。

  第2部、コンサート「黒船がはこんだメロディー〜ペリー来航と音楽〜」は、日本に来航したペリー艦隊が奏でた音楽を、オーケストラで再現する企画である。演奏は横浜シティ・フィルハーモニック、指揮は石井誠一氏がつとめた。横浜開港資料館が所蔵するペリー来航関係資料をスクリーンに映写し、平野が解説を交えながら演奏をすすめた。

  海軍の軍艦には軍楽隊が乗船している。嘉永6年(1853)6月9日、ペリーが久里浜に上陸したとき、演奏されたのは、「愛国歌」のひとつである「ヘイル・コロンビア」や「アルプス一万尺」のメロディーで知られる「ヤンキー・ドゥードゥル」であった。翌年に日米和親条約交渉で横浜に上陸した時は、今日米国国歌となっている「星条旗」や「ヘイル・コロンビア」が奏でられている。

  幕府側の役人との交歓の場では、当時の流行作曲家S・C・フォスター(1826〜64)の「主人は冷たい土の中」や「アンクル・ネッド」が歌われた。ペリー艦隊はその後日本でもよく知られることになるメロディーを運んできていたのである。

  第2部の企画については、放送大学笠原潔氏の研究『黒船来航と音楽』(2001年刊)によるところが大きかったばかりか、笠原氏は収集した楽譜や音源を参考資料として提供してくださった。深くお礼を申し上げる。

  第2部の終わりにあたって笠原氏にコメントを求めた。笠原氏は、現在幕末〜明治初期に山手に駐屯していた英仏軍が奏でたメロディーを研究中であり、英仏駐屯軍の音楽も今日と同じような企画で再現できたら楽しいと思いませんか?と問いかけられた。これに、会場の皆さんは大きな拍手で応えていた。

  ボランティアで演奏を引き受けてくださった横浜シティ・フィルハーモニックの皆さん、そして単純な旋律譜をオーケストラ譜に編曲し、指揮をされた団長の石井誠一氏にもお礼を申し上げる。資料館は紙の上に記された情報を扱うが、人間は五感で物事を受け止める。聴覚にうったえる歴史企画は、これまであまり取り組んだことがなかった。横浜開港資料館にとっても、今回の企画は新しい一歩となった。

(平野正裕)

ポスター画像


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